2014年7月4日のまとめ
相変わらず、体調がすぐれない。午後の三時ごろに起床。
体調がすぐれない原因について、先輩と話し合う。私は大学に行きたい大学に行きたいと繰り返しているが、それというのも学問を語れる仲間がほしいからではないかという結論に達する。よく本を読んでいるという先輩の知人をいずれ紹介してもらう約束をしたり、いまの日大通信で読書会が開けたらいいという話などをする。仲間うちで『コインロッカー・ベイビーズ』が読めたらいいという話なども。なんとなく希望が見えた気がする。
少し仕事をして、うとうとしていたら、夜になってしまう。
のろのろと自宅に電話して、先日日大通信に提出したリポートの結果を聞く。郵便で届いていたのだ。合格していたが、予想よりわるい成績だった。落ち込む。先輩と険悪になる。
立ち直ることもできず、午後十一時ごろには丸まるようにして就寝する。
読書会というのは私の夢である。
小説でも哲学書でも神学書でもなんだっていい、仲間と本を読むというのは、さぞかし楽しいことなんだろうなと思う。
実は高校のとき、西洋哲学の読書会に参加していた。バタイユを読んだ。しかし当時の私には内容が高度でついていけず、途中で参加をやめてしまった。
高校の文芸部で読書会を企画しようとしたこともあるが、頓挫した。
そのうちに、本をいっしょに読まない?と気軽に誘えるような仲間は、身近にほとんどいなくなってしまった。学生時代に比べればみな距離が遠くなり、忙しい。
だからこそ先日私が欠席してしまった文芸サークルのオフ会で、井伏鱒二の詩が取り上げられたということはとても興味深い。
「さよならだけが人生だ」
これだけだって、いろいろ語れるでしょう、ねえ。
ちなみに私は、寺山修司のあの言葉も忘れることはできないと思う。
読書会を企画してみたいと思った。ただしまずは仕事。時間的にも精神的にも余裕をつくりたい。
2014年7月3日のまとめ
どうにも調子が出ない。すこぶる体調がわるい。
午前八時ごろ起きて、先輩のぶんまでコンビニに食料を買いに行って、ふたりで食べるが、そのあとまた眠ってしまう。
次に起きたのは午後の三時。用事で出かける先輩を見送り、ふたたび眠る。
そして午後の七時に起きる。のろのろと仕事をはじめる。体調がわるい、とツイッターに呟いたら、心配してくださるリプが来て嬉しい。八時半ごろからチャットをはじめる。文芸サークルに新しいかたが入ってくださった。スカイプのIDを交換し、チャットで少しお喋りをする。そのままチャット会がはじまった。あと一週間で、あのサークルも一周年だ。
途中で少し体調の悪化を感じ、午後の十時半ごろチャットを離脱。仕事も中断し、夜中の十一時半まで眠る。
起きてからは『同志社大学神学部』をちょっとだけ読み進める。しかし、集中できない。
心身ともに体調のすぐれない私を心配してくれた先輩が、お酒を飲もうと提案した。おつまみを買ってきてもらい、日本酒で乾杯。少し酔った私は、大学で心理学を専攻していた先輩に。心理学とは唯物論と違うのかどうなのか、と噛み付く。先輩は、かならずしも唯物論ではない、という。調べてみたら、むしろ心理学は心身二元論を取る立場が多いらしい。無知を反省。
なにもやる気が起きなくなってフリーズしてしまい、午後の一時ごろ、早々に就寝。
ほんとうに、頭痛と腹痛にやられて眠ってばかりの一日だった。
『右翼と左翼はどうちがう?』『同志社大学神学部』などの本を読んであらためて思ったのは、マルキシズムって一時の日本ですごく流行ったんだなあ、ということ。
マルクスも一回きちんと読んでみる必要がある。しかし私には、その前に、読むべき本がたくさんあるということもまた事実。
『同志社大学神学部』に、バルトに対して批判的な教授が登場する。
★
「しかし、先生、現代の教義学はバルトの影響下にあるんじゃないでしょうか。プロテスタント神学だけではなく、カトリック神学にしてもそうです。第二バチカン公会議をはじめたローマ教皇ヨハネス23世もバルトの影響を受けているのではないでしょうか」
「それはそうです。それだから、バルトには危険があるのです。佐藤君は、バルトが『神学はもっとも美しい学問だ』と言ったことについてどう思いますか」
「………」
「僕は、神学を美学と結びつけることには危険があると思います。神学は、もっと人間的で、ドロドロしたものじゃないといけない」
「どういう意味でしょうか。よく分かりません」
「バルト神学は、あまりにもよくできすぎているのです。神学とは、バルトのように整合性がとれた学問であってはならないのです。それに教義学という発想自体が間違っている」
「どういうことですか」
「教義、つまりドグマ(Dogma)とは、教会が定めた絶対的に正しい真理のことです。カトリックの教会にはこのような教義がある。それに対して、プロテスタント教会は、絶対に正しい教義などは存在しないというところから出発しなくてはならないと僕は思うんです」
「それでは、プロテスタント神学には、教義ではなくて、何があるんですか」
「教理です。ドグマの複数形のドグメン(Dogmen)です。それぞれの教会や神学者が、時代的、地理的、能力的制約の中で、正しいと信じた教理が複数在するのが、プロテスタント神学の特徴です。僕は協議学を担当しているけれど、教義学という表現は正しくなく、ほんとうは教理学と言い換えるべきだと思うのです」
「しかし、バルトがいう教義も、そのような多元性を含んでいるのではないでしょうか。少なくともバルト自身はそのような説明をしています」
「佐藤君は(バルトの主著である)『教会教義学』をどこまで読みましたか」
「第四巻創造論第三部の倫理の部分しか読んでいません」
「『教会教義学』は、全体をきちんと読んでおく必要があります。特に僕は、あなたが読んでいる倫理より前の創造論第一部、第二部を読んで違和感を覚えました。神の啓示一本だけで、自然の意味をまったく認めないのは、おかしいというよりも危険です。バルトがいう多元性にしても、『実は自分が絶対に正しいが、お前もいつかはわかるだろうから、間違えた考えをもっていてもとりあえず見逃してやる』という傲慢な考えに基づいているのではないでしょうか。どうもそんな気がして仕方ないのです」
(佐藤優『同志社大学神学部』P112~114)
★
面白くって、この箇所だけでも何度も読み返した。
「神学はもっとも美しい学問だ」――。
非常に惹かれるフレーズだけれども、忘れられなくって反芻するくらいに惹かれるフレーズだけれども、でも、その美しさのなかには危険が潜んでいるのだろうたしかに。
勉強することによってその危険は回避できる。
美学と神学。興味あるそのふたつの分野について、私は、もっともっと知る必要があるのではないかと切実に思っている。
そして願わくばそれを小説にできたら――。
2014年7月2日のまとめ
昼間はうとうとしていた。仕事はあんまり手につかず。
最近どうも、夜に眠れなくっていけない。
先輩に、私は頭がよくない、とさんざん愚痴を漏らしたが、午後の三時ごろ先輩によい報せがあって私自身も元気になる。
夕方は、五反田に出て知人に出版祝いをしてもらった。焼き肉。おいしかったなあ。私の『天使は、二度泣く。』を褒めてもらい、嬉しかった。作家であるその知人いわく、私は新人離れしているらしい。そして『天使は、二度泣く。』はなにかを読者に残すと。読み捨てではない、と。
五反田のブックファーストで『同志社大学神学部』『本当にわかる宗教学』『イエスの生涯』『月刊少女野崎くん(4)』を購入する。本屋のカウンターに自分の惚れた本を差し出すときの、快感。
先輩と合流。HUBに行く。酒は飲まなかったがチーズやナッツをつまんだ。ワールドカップが流れていた。スポーツの話や宗教の話など、とりとめなく。
帰宅してからは、しばらく『同志社大学神学部』を読んでいた。政治の話は私には少し難しいが、この本はとても面白い。京都の雰囲気。世のなかには、政治的才能や宗教的才能をもっているひとがたしかにいる。同志社大学神学部の自治という概念。さすがにカルヴァン派の流れを汲んでいる。
先輩と他愛ないことで口論。和解する。メールに気がついたが返すような時間ではない。夜の二時ごろ、就寝。
私は小説を書くし、いまは創作的人間であるというところがどうしても目立ってしまうように思えるけれど、誤解を恐れつつもあえて言ってしまうのならば、じつはあんがい学問的人間で、なおかつ宗教的人間であるのではないかと思っている。
遠藤周作の著作『私にとって神とは』で、私は、宗教的才能という概念を知った。
家族にも親類にも知人友人にもキリスト者がほとんどいない私が神の存在を信じてしまうとは、これはもう、そういった種の才能が少しばかりはあるといって差し支えないのではないかと思った。
私が近ごろいつも思うのは、どうにかして創作的領域と学問的領域と宗教的領域を結び付けられないか、ということだ。
池田晶子氏が哲学的小説というものを試みたように、私はいつか宗教的、もっと言ってしまうのならば神学的小説に挑戦してみたい。
私はまだキリスト者ではないし求道者でもないので、怒られてしまうかもしれないと恐いが、そういった情熱がふつふつと湧き上がってきて仕方ない。
大学に通ってみたい。
神学校に、もう一度挑戦したい。
そのためには、いまたくさん学んで、いろいろなものごとをよくよく見極めることだ。行かない、という選択肢も含めて。
そして、充分に仕事もすること。
事に仕えるということが、仕事。
つねに使命を忘れず生きていたい。
7月3日は、仕事を進めたい。せめて6日までには仕上がるように……。
青によせて、『天使は、二度泣く。』発売しました。
(ひさびさに書くから、少したどたどしいかもしれないけれど。)
(なんだか抽象的な、でも率直ないまの想いです。)
2014年6月25日に、小説を出版しました。
『天使は、二度泣く。』という題名の、ちょっとした物語です。
そして私は、小説家になりました。
根無し草、と自称するほど、なにかと引越しの多い人生だったのですが――。
そのぶん、私はこころのなかに自分だけのささやかで確固たる四畳半をもっていて。
大好きな本や音楽や絵や、大好きなひとたちの写真や、いままで書き溜めてきた原稿や、そういった個人的なものものだけが詰まっているんですね。
とても心地いい空間だった。
そこから一生、出ないことだってできた。それはそれで、ひとつの生きかたであるのだし。
でも私は、出たかった。
どうしても、あの四畳半と決別して、世界のなかで生きたかった。
旅を、はじめてみたかった。
どこまでこの試みが成功しているのか、正直なところ私にはまだわかりません。
でも。
私はたしかに青い空を見上げたんだ、と信じたい。
世界はひろい。
世界はこわい。
世界はつらい。
でも、あの青を見ただけで。
一瞬だけれどすべてが、これでいい、って思えるからふしぎですよね。
『天使は、二度泣く。』
さまよう、物語です。
青い炎に似た生活。
日々の大半を、自分のために過ごしている。
自分のためだけに、と言っても、実感としては差し支えない。
小説を読んだり、漫画を読んだり、法律を勉強したり、英語を勉強したり、哲学を勉強したり、読書計画を立てたり、ブログを書いたり、漫喫に行ったり、自転車を買ったり、泳いだり、走ったり。
すべて、自分のためにおこなっていることだ。
自分が豊かになるために。
理想を掲げた人生を、悠々生きてゆくために。
私はいま、とても静かに生きている、と思う。
そんな私の、行き着くところはどこだろう。
ひとりだけで、もしくはふたりだけでひっそりと暮らしていて。
そんな私が、行き着くところはいったいどこだろう。
こんなはずではなかった。
ふしぎなことに、私は矜持をもってしてそう思う。
こんな、奇妙に静まり返った、自分専用の人生を手に入れるはずではなかった――。
いまの私の生活は、青い炎に似ているかも。なんて。
なんだか、いろいろなことが変わってきてますよ。
読書の道を通すこと。
節操なく、本を読んできた。
読書量がそこまで多くない私は、とにかく濫読することが大事だと思っていた。
それこそ、歩きながら、目についた花を片っ端から摘んでいくように。
しかし、好きなものばかり読んできた果てに。
私は、限界めいたものを感じた。
じっさいには読書に限界なんかあるわけないのだとは思うのだけれど、私は、そういったものを感じてしまったのだ。
なにを読んでもなんだか似ていると思ってしまう。
ストーリーの先がパターンとして読めてしまう。
刺激がない。感動が、ない。
そこで今年に入ったあたりから、読書の道を通そう、と思いはじめた。
寄り道ばっかりの読書はいったんやめにして、きちんと道を歩いて行こう、と思ったのだ。
読書の道を通す、と言ったときに、具体的にやることはとりあえず決まっている。
1.読書の計画を立てること。
2.読書の感想を残すこと。
3.読書をシステム化すること。
以下、ひとつひとつ見ていきたい。
1.読書の計画を立てること。
読む本を、そのとき得たい情報や感動に従って決めてゆく、ということだ。
たとえばいま私は、「少女」について知りたいと思っている。
なので、「少女」を描いた本の情報を収集して、そのなかから読む本を決めた。
2.読書の感想を残すこと。
じっさいに目に見えるかたちで記録が残っていると、あとで参照しやすい。
自分はこのときこう感じたんだなあ、ということがわかる。
自分の読書の形跡をデータベース化するためんも、読書の感想は残したい。
3.読書をシステム化すること。
言い換えれば、読書の型を決める、ということだ。
本の情報を収集し、情報カードに記録し、その情報カードをもとに本を読む順番を決め、じっさいに本を読み、感想を残す。
これを繰り返せば、自然と読書が回りはじめる。
ここからは、では私はいまどうやってこれらのことを実行しているのかを書き記したいと思う。
繰り返しになるが、私はいま「少女」について知りたい。
そこで、「少女」をテーマにした本をさがすことにした。
まず思いついたのが、『ダ・ヴィンチ』という書籍情報誌。
インターネットで情報を収集することも考えたのだが、書籍の情報のほうが平均的には良質だ、という持論に従って、とりあえずインターネットでの情報収集はあとに回そうと思ったのだ。
そこでとりあえず、『ダ・ヴィンチ』の最新刊とバックナンバー、合わせて五冊を揃えた。
こちら、『ダ・ヴィンチ』の最新刊。
今月はコナン特集ということで、コナン好きな私には嬉しい一冊でもあった。
『ダ・ヴィンチ』を隅から隅まで読む。
気になった書籍の情報を、以下の項目に従って書き記していく。
●表面
・タイトル
・著者名(訳者名)
・出版社
・値段
●裏面
・情報を発見した日付
・情報を発見した媒体
・どうしてこの本に惹かれたのか
とりわけ大事なのは、どうしてこの本に惹かれたのか、という項目。
ここは、私にしか書けない、私の感性が出てくるところだからだ。
そして、付箋も併用している。
・青いふせんは、テーマに合う本のしるし。
・黄色いふせんは、kindleで買える本のしるし(kindleでの値段もしるしておく)。
こんな感じだ。
ちなみに、ちらりと覗くきれいな足は白井黒子さんだ。
書き記すときにつかういわゆる「情報カード」は、これをつかっている。
名刺サイズの、お手ごろなカードだ。
情報を集めたならば、いよいよ読書の順番を決める段階に移る。
私はいま、この段階にいる。
そしてきょうは、その順番を書き記したいと思って、このブログを書いたのだ。
以下に並べる本の情報は、
・『ダ・ヴィンチ』
・インターネット
・自室の本棚(既読)
・自室の蔵書(未読)
から、取ってきている。
番号は、読む順番。
●テーマ「少女」
3.『少年少女飛行倶楽部』加納朋子(インターネット)
4.自由に読む
5.『消えてなくなっても』椰月 美智子(ダ・ヴィンチ)
6.『女には向かない職業』P.D.ジェイムズ(ダ・ヴィンチ)
7.自由に読む
8.『ヘヴン』川上未映子(本棚)
9.『少女七竈と七人の可愛そうな大人』桜庭一樹(蔵書)
この順番で、読んでいきたいと思っている。
さて、まずは、『海の底のピアノ』と『少年少女飛行倶楽部』を手に入れなくっちゃ。
今回は、私の読書道を紹介させてもらった。
また機会があれば、この続きも書いてみたい。
超電磁砲の四人組といっしょに、ぱしゃり。
ちなみに今回モデルになってもらった超電磁砲のみなさんは、こちら。
かわいいでしょ。気に入ってます。
私のノート術。
デジタル化のぐんぐん進む世のなかだが、私はいまだに、紙のノートを愛用している。
ノート術という言葉があるということからもうかがえるように、どうにか工夫してノートとともに暮らしたいと考えるひとは多いようだ。
私も、そのうちのひとりである。ノートのある暮らしをはじめてからわかったことだが、ノートの世界というのは、じつに豊かだ。
しかし、ノートと仲よくなるにはだいぶ時間がかかったし、いろいろと工夫もした。
きょうは、その軌跡をしるし、ノートを愛するひとと愛したいひとの、なにか助けになれればいいと思う。
私は自分のノートを、「なんでもノート」と呼んでいる。
なんでもノートはただいまナンバー18、およそ二年間にして十八冊のノートを書きつぶしたことになる。
私はノートをつかい続けるにあたって、いくつかの心構えをもうけている。
以下の通りだ。
少し読みづらいと思うので、書いてみる。
以下は、おおざっぱな心構えだ。
・なんでも書く。
・他者に見せない。
・日付を必ず書く。(自分は生ものだから)
そして以下は、心構えというより細かいルール。
。1ページにひとつの話題。
・ボールペンで書く。
・余白を多くとる。
そして最後に、私の思うノートと向き合う姿勢。
・書きつぶす。
・読み返す。
ひとつひとつの項目について、語っていきたいと思う。
★おおざっぱな心構え
●なんでも書く。
私はさまざまなことをノートに書いている。
・仕事のメモ
・スケジュール
・日記
・通信大学の勉強
・読んだ本の抜書き
・小説のアイデア
・イラスト
・ツイッターのお気に入り
などなど、ほんとうのほんとうに、なんでも書いている。
手帳に勉強のノートに日記に、と分けてしまうと、一冊の情報量は格段に少なくなってしまう。開ければ私の情報がなんでも詰まっている、自分を再現できる、つまり私と面識がないひとが読んでもある程度人となりがわかるというノートを私は目指している。
思考の摩擦が起きるのも面白い。前のページで書いた日記と次のページで書いた小説のアイデアがリンクして、新しい発送が生まれる、ということもまれではない。ぱらぱらめくっていると、そこには自分のいろんな情報が詰まっているので、思考が広がりやすいのだと思う。
●他者に見せない。
これは、「他者に見せることを前提として書かない」と言ったほうが適切かもしれない。
理由は簡単である。
他者に見せようと思うと、気張って、格好よく書こうと思ってしまうからだ。
体裁だけ整ったノートを、私はあまりいいノートだと思わない。それならば参考書を買えば、間に合っているからだ。もちろん、見た目麗しくそのひとの情報が詰まったノートというのも世のなかには存在するのであろうが、どうにも体裁を重視したノートは、そのひとの人間味が欠けている印象がある。
それくらいなら、たとえ見た目は少々ぐちゃぐちゃでも。
そのひとにしか書けないノートを思いっきりデザインしてほしいなあ、と思う。
●日付を必ず書く。(自分は生ものだから)
自分の思考というのは、日々移り変わってゆく。
自分の思考と自分の人生をリンクさせるのも、自分の情報を活用するためには大切だ。ああ、あのときあんなことがあったからこんなこと考えているんだなあ、とか。たとえばそれは、働き始めたから仕事のメモが増えたんだなあ、といった簡単なことでもいいのだ。
日付を書いていないと、あれ、こんなこと考えているけれど、これって私の人生においていつ起こったできごとなんだろう……と混乱しかねない。
自分の思考が、自分の人生と離れてしまうのだ。
思考と人生をくっつけるために、どんなに面倒であっても日付は書くべきだと思う。
★細かいルール
●1ページにひとつの話題。
こうすることで、自分の情報を管理しやすくなる。
目次などもつくれるし、ただの日記がコンテンツとなることだってあるのだ。
そのページにひとつの小さな題名をつけられれば、なおいいと思っている。
●ボールペンで書く。
かならず、消せないボールペンで。
自分の思考を消してはならない、と思う。
それは大きな損失だし、なにより苦い経験になってしまう。
効率化をはかるためでもある。
●余白を多くとる。
ひとつには、読み返したときに書き込めるということがある。書き込んだときにも、もちろん日付は書くのだが。
もうひとつには、余白を多くとることでたくさんのページが消費され、ノートをつかっている、という実感がもてることにある。
ノートは、すくなくとも半分以上つかわないと、書きつぶしている実感をもちにくいものだと思う。
★ノートと向き合う姿勢
●書きつぶす。
書きつぶしたノートの量が、そのままノートへの愛情だと私は思っている。
●読み返す。
読み返せば、そこには自分の思考の世界がうわあっと広がっている。
私は、ほんとうにノートというものを愛している。
もっともっと、ノート愛好家が増えればいいと思っている。
他者のノート術、そして他者のノートそのものに、私は非常に興味がある。
ノートについて、ぜひ語らってみたいものだ。過去のノートの見せ合いなんかも、いい。
ちなみに、私のノート術を確立するにあたって参考にした書籍がある。
この書籍は、私のノートライフに大きな影響を及ぼした。
余白を多くとる、といった考えかたは、ちまちまとノートをつかっていた私にとってじつに斬新だった。
書きつぶす、という考えかたも、この本から得たように思える。
ちなみに、続きもある。
こちらは実例がさらに多く載っている印象。
そして、もう一冊。
このノートから、私は一冊になんでも書くという精神を受けとった。
「なんでもノート」のお手本である。
みなさん素敵なノートライフを!
以下、私の最近のノートをちょっとだけぱしゃり。
→めもめも。スタンダートな使いかた。字は、私には読める。
→むしゃくしゃしてるときに、ひたすら手遊びした結果。
→裏表紙にイラストを描いてみた。とにかく楽しくつかうのが、大事。