柳なつきのブログ

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子供への、見えない暴力。

子供への、見えない暴力。

 「子供である」ことを理由にその人格を否定するのは、暴力だと思う。

 子供は大人の庇護がなければ生きていけないし、どうすることも、何することも出来ない。それは社会的な事実です。大人が子供に食べさせてやっている、それだって事実です。
 でもそれを武器にして、「誰が食べさせてやってると思ってるんだ」だとか「お前みたいな子供は捨ててやる」だとか「お前みたいなやつに食わせたくない」だとか言うのは、これはもう子供への暴力だと思います。だって子供には、どうすることも出来ない。すこし極端に言ってしまえば、結局は、保護者に許しを請うしか生きてゆくすべがない。子供はそのとき、どうしようもなく自分の存在が情けなくなるのではないかと思います。無力で、ひとり立ち出来なくて、庇護される弱い者としての自分。それをきっと、ある種の屈辱と理不尽さと共に、噛み締めるのでしょう。そしてそういう気もちが溜まりに溜まれば、「べつに生まれてきたくて生まれてきたわけじゃない」という、根本的な自己否定に繋がる考えかたを始めてしまうときだってあります。
 繰り返しになりますが、これはもう暴力です。子供であることの情けなさ、それをおぼえているのならば、子供である立場の人間に、無力さをむやみやたらと感じさせるような発言や行動は、ぜったいに出来ないはずです。というよりかそれは、してはいけないと思います。子供は確かに無力です。大人が彼らを育てているのも事実です。でもそれを、悟らせてはいけないのだと思う。それを悟った瞬間、子供は絶対的な無力感を感じるはずです。自分がひとりの人間、ひとつの人格でないような気もちになる。そしてその屈辱感は、ぜったいにプラスにはなり得ません。その屈辱を味わうレベルまでいってしまったとき、子供はきっともう、取り返しのつかないくらい、ずたずたに傷ついているに違いありません。そして傷は、かならず不幸へとつながります。これはかならず。一生涯、その傷が癒えないことだってあり得るかもわかりません。
 子供であることを責めるのは、暴力だ。その人が幼いのは、その人のせいじゃない。「子供のくせに」「何もわかってないくせに」「養ってやってるのに」、それは決して、その人のせいじゃないんです。当たり前のことです。自明のことです。それを責めてはいけないと思う。だって責められたって、どうしようもないんです。それを言われてしまえば結局は、自分を徹底的に否定するしか道がないんです。子供である自分を、徹底的な無力感と共に責めるしかなくなってしまうんです。それはほんとうに、ほんとうに起こってはいけないことだと思います。起こしてはいけない。
 でもそういった暴力って、あんがい起こっている気がするんです。それも無自覚に。それはほんとうにいけないと思います。
 子供は、子供であることを謳歌して良いんです。そしてそのことに、罪悪感をもつ必要はまったくない。子供は子供らしくあって良いんです。と言うよりか、そうでなければいけない。自分が子供であることを、悩む必要なんてないはずです。そんなこと、思わせてはいけない。
 子供の無力さや無知を責めるのは、暴力です。

「大人」という存在は、子供にとっては思う以上に絶対的な存在です。そのことを、おぼえていることは出来るはず。つかいまわされたフレーズですが、誰しもかつては子供だったのだから。

 何回も書いていることですが、子供は子供である前に一人の人間です。大人が大人である前に、一人の人間であるように。


 私自身は子供と大人の中間あたりの年齢に属しているわけですが、「養われている」という点では、まだ子供のがわにいます。しかし子供のころよりは、自身の文章をもって主張を出来るようになりました。それでこのような文章が生まれてきたのだと思います。つたない部分などあったかと思いますが(繰り返しがやたらと多いですし)、今の私なりに思いをぶつけた文章です。
 今このときに書き記して、良かったと思います。もしかしたら、今でないと、書けなかったのかもしれない、と思う。

 じつはこのあとつづきがあるのですが、だいぶ話題も変わるので、いったんこれで投稿します。よろしければ、おつきあいください。

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