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柳なつきのブログ

柳なつきのブログです。

水の国(9月27日ぶん)

水の国

(小説です。連載です。つづきです。)
(意外と間が、あいてしまった……。)
(9月27日8時半、再び更新。)



 私は、ある世界を知っている。
 それは、水の国。水が自由に跳ねて踊って舞う、どこまでも深く深く潤い湿った場所。どこまでも広がる薄い桃色の大地に、いつでも雨が降っている。そこかしこに水たまりがある。池がある、湖がある、川がある。水に溢れている、触れればひんやりと心地良く、しっとりと私を包み込む。
 小さなころから、私は水の国を知っていた。遊びに行くたび、傘なんかささずに外を走り回った。口をいっぱいに開けて雨を食べたり、さくりさくりと水を踏みしだいたり、体温で温もってゆく水の流れを面白がったり。水色の葉はしずくを滴らせ雨はどこまでも艶やか、私は叫びながら、子どものように走り回った。いやじっさいそこでは、私は子どもなのだ。小さな小さな、あどけない子どもの姿。水の国では、私は成長していない。
 夢だなんて、思えない。目をうつろに開けたとき、生々しい水の香りが鼻にこびりついていることもしばしばだった。何なのだろう。からからに乾いたこの世界に戻ってくるたび、思う。せつないかなしいやるせない。ずっとずっと、あそこで水を受けていたい。水を食べて水を踏んで水を感じて、誰にも知られず、ひそやかに遊んでいたい。そう、ひそやか。水の国で、誰か他の人に会ったことはなかった。絶対的な、安心。
 水の国。
 それは私にとって、現実よりもリアルで大事でせつじつな世界だった。

「僕は、水の国の王だよ。」
 衝撃的なことを、彼はさらりと言ってのけた。
「え、は、はい?」
「あれ、聞こえなかったかな? 僕は、水の国の王だよ。」
「えっなにあそこ、王とかいるの。」
「うん、ていうかそれ僕だし。」
 はあ、と私は言って、しんとなる。ききたいことは、山ほどあるはず。でも具体的な質問が、思い浮かばなかった。
 私は椅子の背もたれを胸に押しつけて座り、ひとつ後ろの机に頬杖をついている。彼はその机の椅子に、きっちりと、膝を揃えて座っている。何かきっかりしてる、こいつ。動作とか視線とかもの言いとか、きっかりきっかり、時計みたい。そう思った。
「えー、でさぁ、」
 間延びさせて気だるげに言ったはいいけれど、言葉のつづきなんて考えていなかった。
「えっと、あーだからさぁ、……王とかいるの?」
「うん。いるよ。」
 至極簡潔な答え。簡潔すぎて、それ違うだろ! そうじゃない、って言いたくなる答え。私は情報を求めてんだよ。
「説明を求む。」
「説明って?」
 きょとんとしている、こいつもしかして、天然か?
「まあだからつまり、私はあの広い広い大地、大地でしかない場所に国家が存在するとは、思っていなかったわけです。だって人とか住んでなさそうだし。ていうかあれ、夢じゃん、……ていうかほんとに知ってるの、水の国? 私いまだに信じられないんだけどさ正直。」
「矛盾してるよ皆元さん。」
 やけにたのしそうに言う。小学生が、ぶっぶー違いまーす、って自慢げに言うような感じ。子供っぽいのか何なのか、こいつはよくわからない。まあ当たりまえか、ついさっきまで個人として認識していなかったわけだから。
「皆元さん今国家が存在するって思ってなかったって言ったけど、でも、あそこを国だと認識してたわけでしょ?」
「……あ。」
 確かに。
「いや、それは。まあ、そうなんだけど、……ああ確かに、何でだろ。」
「それは、あそこが国だからだよ。じつを言うとね、」
 彼は声のトーンを落とした。秘密だよ内緒だよ、という意思を匂わせて。
「あの国に来た人には、そこが国だってわかるように、してあるんだ。」
「え、それ、どうやって?」
「それは……うーん、難しいな。説明するの。いずれわかるよ。」
 私は何となく釈然としない気もちで、窓のほうを見やった。のっぺりと汚れたガラスの向こうには、ぼんやりとくすんだ灰色の空、ぐったろと掠れた緑の葉。ただでさえつまらない景色を、ますますつまらなく見せている。
 きゃあっと、遠くから嬌声。体育でもやっているのだろう。そのつぎには、きゃはははと笑い声。その声に苛立って、半端じゃないほど苛立って、その思いを彼への言葉にぶつける。退屈な空と退屈な葉を眺めながら。
「で、何が言いたいわけ。」
「皆元さん。」
 彼は急に居住まいを正した、気がした。
「お願いします。僕の国を、救ってください。」
 今までのきっかりとどこか偉そうな口調からは一転、懇願するような響きで言った彼にびっくりして視線を戻すと、彼は深く、深く深く頭を下げていた。机の上に、ごろんと乗っかる彼の頭。よく見ると、ちょっとだけ薄茶色いその髪は、細くてしなやかで繊細だった。ふうんと思って、時計をちらと見る。授業が終わるまで、あと三十分。まだまだ時間はある。
「うん、」
 私はゆっくり、言葉を選ぶ。
「私も水の国は好きだしさ、とても、ていうかあそここそ私のリアルだし……でもよくわからない。説明してくれないと。どういうこと?」
「説明? 説明をすれば良いの?」
 彼はゆっくりと顔をあげて、言った。驚いたことに、彼はぐずぐずと泣いていた。目を赤くして鼻をすすって、びっくりした、高校生にもなった男の子が泣いているところなんて、テレビでくらいしか見たことがなかったから。
 でも私は、落ちついて言う。優しさ、そう、優しさを意識して。かつてのように。人を包み込むことなら、何回もやってきた。そして泣いてる人間なんてのは、一番包みやすいんだ。
「そうだよ。説明して欲しい。」
 ふわっと、包み込む。彼の困り果てていた瞳は、ふと決意の瞳に変わった。
「……わかった。説明すれば、良いんだね。」
 唇をきゅっと結んで、彼は語り出した。