世界について、率直に。
(11月13日、ミクシィのほうにあげた文章です。)
私は世界を信頼し過ぎなんじゃないかと、ふと思ってしまうときがある。いまだに。
そういうとき、心はすっと一瞬にして冷える。鮮やかに伸びやかに、うたうように広がっていた世界の色は、一瞬にして反転する。無機質で感情のない、紺や白や黒。私は立ち尽くす。心臓が、ばくばくと高鳴り始める。ああ、これが、と私は思う。もしかしてこれが、ほんとうの世界なのかもしれない。私がみたあの世界は、にせものだったのかもしれない。私はまだ、ここにいたのかもしれない、ほんとは。どこかへ行ったなんてどこかへ行けるかもなんて、そんなの錯覚だったのかも、しれない。
でもその色は、確かに戻ってくる。私はそのことを知っている。だからそういうとき、私はその暗い世界を歩く。ひたすらに、歩く。そして待つ。色がふわりと戻ってくるのを。ぐっと唇を噛みながら、もうあそこにはいないんだ私はと言い聞かせながら。
そして世界はまた、明るく照らされる。
あんなにも世界、というか自分以外のほとんどすべて、いや、もしかしたら自分自身も、とにかくすべてが嫌いで、嫌で、もうぐちゃぐちゃでどうしようもなくて、それなのにどうして、今はこんなにも世界に呼びかけているのか。
それはたぶん、もうじっとしていたくないから。じっとしていたら、なにも始まらないことがわかったから。
目をかたくつぶってぎゅっと体育座りをしていたら、妄想が広がるばかりだ。不安も恐怖も、どんどん増大していく。
でも動けば、目を開けば、なにかが見える、なにかがそこに存在していることがわかる。確かに、わかる。触れることだって、できる。話しかけることだって、ひょっとしたら、わかりあえることだって。
私は、あの狭い世界にいるのは、もう嫌だった。だから、出ようと試みたんだ。ナイフをリュックにしまって。そしてその試みは、成功してると信じている。
もちろんのこと、世界が広がれば広がるほど、さまざまなものに晒される。それは悪意だったり無関心だったり無理解であったりさまざまだけれど、当たりまえのものとして存在しているものだ。
それでも私は、あの場所で縮こまっていたときよりも、ずっと生きている感じがする。希望、というものをはじめて知った気がする、と言ったら言い過ぎだろうか、でも、それでも。
良いことばかりとは限らない。それはもちろん。それはきっかりと、自分に刻み込んでおかなければならない。だからナイフは、捨ててはいけない。
でも、良いことは、あるんだ。
私はこの広い世界に飛び出して、良かったと思っています。やっぱり、詰まるところ、結局はね。
これからも、こうしてゆきたいです。臆することなく、在りたい。