読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

柳なつきのブログ

柳なつきのブログです。

雨にまみれて。

日記

(11月17日、ミクシィのほうにあげた文章です。)



(今も、雨が、降っています。)


 今日も喫茶店に行きました。席について、とりあえず携帯電話を開きました。かちゃかちゃと言葉を打ち込んで、そこでふと、顔をあげると。喫茶店にいるうちのだいたい半分くらいの人たちが、私と同じく携帯電話をいじっていました。どこか思いつめたような、どこか疲れたような、でもどこか安心した表情で。ああ私もこういう顔をしているのかな。そう思ったと同時に、これは自然なことなのかもしれない、と思いました。人が人と、あるいは世界と常につながっているということは、もしかしたら自然なことなのかもしれない。つながっていたいと思うことは、自然なことなのかもしれない。そう思うと、手にした青い携帯電話が、急にずしりと重くなった気がしました。
 あるいはそれを、依存、と言うのかもしれない。でも。でも、必要でないものを、求めたりなんかしない。つながりというのは、必要なんだきっと。それが世界とのものであれ人とのものであれ、自分のなかの理性だとか感情だとか、正気だとか、現実感だとか、そういったなにかとのものであれ。だってそうじゃなきゃ、こんなにたくさんの人が携帯電話をもち歩いたりしないと思う。たとえ鳴らなくても鳴らさなくても、鳴るという可能性鳴らせるという可能性、それがきっと、大事なんだ。
 つながりたい、というのは、自然な欲求なのかも。と、思った。ひたすらに降る、雨の気配を感じながら。薄暗い、喫茶店のなかで。きっと、きっとだから、携帯電話はこんなにも、私たちに染み込んだ。考えごとをしていて放置していた携帯電話は、ふっとディスプレイの光を失った。

 私は世界の一部であるはずなのに、どうして世界と私はべつのものなのだろう。
 不思議だ。たまらなく。こうったことが、わからなくなるときがある。ほんとうに。そういうときは、なかなか「今」を「ここ」を、見ることがかなわなくなる。見えなくなる。べつの場所を見てしまう。そういうときが、いまだにある。

 今日、すごく染みた文章。角田光代の、『昨夜はたくさん夢を見た』より。
「僕はずっと、カオルもヒカルもマリコもクロも、みんな同じ場所で、みんな同じものを見ているんだと思っていました。特にカオルとは。だからいつも一緒にいて、見たものについてや感じたことについて話したり笑ったりしてたんだと、何となくずっと信じていました。だけどここにいて思うのは、それは全然嘘だということ。勝手に僕が作った幻想だということ。僕たちは多分全然違う場所で全然違うものを見て、たとえば別々の透明な瓶のなかで、自分だけの空気を吸いながら、ガラス越しに目を合わせてただけみたいな気がするのです。そう思いついてとても絶望的な気分になったのだけれど、人なんてそんなもんなんじゃないかと思う。友達とか恋人とか夫婦とか家族とか、ぜんぶぜんぶ偽物の嘘っぱちなんじゃないかと思う。それはきっと悲しいことではなくて、人が勝手に生れたり死んだりするのと同じに、ごくごく普通のことなのかもしれない。そんなことを考えています。」
 違うものを、見ている。それに気がついたときあるいはそれを思い出したとき、私はひたすらに立ち尽くす。そして、そう、でもそれは、かなしいことではないんだきっと。当たりまえのことなんだ。頭を抱えたくなる。友達とか恋人とか夫婦とか家族とか、そんなのぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ嘘だ嘘なんだ、偽物なんだあんなの、馬鹿みたいだ馬鹿げている、そう喚いてなにもかも、大切ななにもかもを壁に思いっきりぶつけたくなるときというのは、確かにある。
 それでも涙が乾けば、またつながりを求めずにはいられない。
 どうしてだろう。わからない。考えても、わからない。だって瓶を割ることなんて、できるのだろうか。そもそもそれは果たして、私にとって良い選択なのだろうか。瓶を叩き割った音とともにさらなる絶望が押し寄せるなんて、可能性がないとは言えないんだよだって。
 じゃあ、でも、私たちは一生、ほんとうに出会うことはできないのだろうか。そうは思いたくない。でも。だけど。言葉をそうして繰り返して、やがてはどこか、遠いところに辿りついてしまう。


 最近、雨めいていますね。
 私はなんだか、いろんなことがわからなくなっています。雨の音と思考の流れとが、変に共鳴してぐわんぐわんします。