柳なつきのブログ

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雪の日の日記。

 雪のなかを、歩いて帰ってきました。
 雪に対しては、べつだんいいイメージをもってはいなかった。ふわふわ、とか、ひらひら、とか、そんな可愛らしいイメージは、すくなくともない。それよりかむしろ、雪、というと、がちがちに硬くなって、薄汚れてしまった朝の雪を思い出す。歩くほどにつるつると滑る、せわしない朝。なんとなく裏切られたような、朝。雪の残骸、とでも言うべき虚しい風景。それに雪というのは、どうしても故郷の気配と直結してしまっている。都会よりもたくさん積もるし、そのぶんじっさいの生活で困ることも、ときどきではあるが確かにあった。だから雪というのは厄介なものだ、というイメージも、すくなからずあったのだ。夢がない、とは思いつつ。
 でも今日は、ああ、雪ってきれいだったんだ、と思った。
 傘を、もっていなかったんです。買おうかと思ったけれど、そんな気分でもなかったので、雪を浴びて帰ることにした。
 べたべたに濡れた地下道を、歩く。期待なんて、していなかった。私にとって雪は、雨とほとんど同義だった。ちょっとだけとくべつ、という点と、浴びればすこしだけかなしくなれる、という点において。だから期待なんてしていなかった。むしろそれは、私をより不穏にさせるもののはずだった。
 だから外に出た瞬間は、あれ、と思った。かすかな違和感。雪が、白いのだ。記憶よりも、純粋な色。純粋で、どこかあたたかい風景。ちょっとだけ、圧倒された。あれ、と再び思う。あれ。雪って、こんなんだったっけ。
 とりあえず、足もとに気をつけて歩いてゆく。べちゃりべちゃりと鳴る雪は、やっぱりいつもの雪な感じで、さっきのはささいな錯覚なのかなあ、なんて思って、そして私はいろいろなことを思い、なんだか感傷的になってしまって、ふっと空を見あげたのだ。
 きれいだ、と感じた。
 それ自身が、光を放っているみたいに輝く。そして押し寄せる、私に向けて押し寄せる。光が迫ってきているみたいだ、と思った。あかるいのだ、とにかく。そしてしずかだ、こんなにも激しい熱情をもちながらなお沈黙している。そこが雨とまったく違うのだと、私はそのときようやく気づいた。雪は、しずかで、あかるい。
 圧倒された。すごい風景だ、と思った。
 私はしばらく立ち尽くして、それから、すこしずつ歩き始めた。雪を浴びて、ああ、かなしくなるはずだったのになあなんて、小さく苦笑しながら。

 そういうわけでかなしくはならなかったのだけれど、でもその代わり、私は夢想に耽ってしまった。
 それは、どこまでも行く、という夢想。雪に支配されただれもいない街を、ただひたすら歩いてゆくという夢想。
 私はときどき、こういったことを考える。それは実現しないししたくないしできない、そういったたぐいのことだ。
 振り続ける雪は、やがて街を沈めてしまう。東京タワーやスカイツリーのてっぺんだけが、広大な雪の大地の向こうに見える。それらはいつも通りにライトアップされ、雪をあたたかく染めている。それはとてもうつくしい、幻想的な、甘美な風景だ。
 でも、と私はそこで思うのだ。でも、きっと、ぜったいに、私はそのあたりで耐えられなくなってしまうだろう。そして引き返すか、携帯電話でだれかに助けを求めるか、雪かきを始めるか、そういったことをしてしまうだろう。それらの行為がうまくいかなかったとしたら、不安に駆られて、声をあげて泣いてしまうだろう。
 それが現実というものなのだと、思った。現実からは、逃れられない。現実は、夢だけでできているわけではない。そこにはもろもろの、現実的な都合というものがある。その混沌こそが現実であり、だから雪のなかを歩き続けるなんて純粋な行為は、現実ではできないのだ。きっと。
 でも、そのことに対して絶望したりはしない。むしろそれは、希望だ。現実はときに鎖だけれど、ときには舫いでもあるのだ。
 雪はそれでも降っていた。このまま振り続けたら、きっと、ほんとうに街を沈めてしまうだろうと思った。そうならいいのにと思って、でも、じっさいにそうなったらいやなのだやっぱり。どうしようもないな、と思って踏み出した足は、さくりと雪をしだいた。世界の終わりはこんなふうなのかもしれないって、私はまた夢想を始めた。


 そして現実に帰ってきて、今、この文章を書いています。身体から冷気はなくなり、あたたまって、雪の名残はありません。
 でも今耳をよく澄ませてみると、雪の降る音がかすかに聞こえてきました。雪は確かに存在するのだと、現実として存在するのだと思いました。私の夢想のなかのそれのように、完全に沈黙してはいないのだと。その事実は絶望に近い気持ちも呼び起しますが、でも、結局のところ希望に結びつくのです。
 雪のことを考えながら、私は今日眠るでしょう。