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柳なつきのブログ

柳なつきのブログです。

「凡愚」

 高校一年生のときの文化祭で、「恋愛」というお題をもらって書いた短編です。

 恋愛、って聞いてこんな小説を書いちゃうじぶんって……っていう感じでした。

 この小説によって、私の人生だいぶ変わった気がします。

 

 

 

凡愚

 私は、人の中にある種の美しさを見出すことができる。それは才能だとか能力だとか、そういった類のものではなく、その人自身の美しさ。人生を美しいと思っている、そのことによる美しさ。
 これを考にぽつりと言ってみたら、
「へえ?」
 と、よくわからない顔をしたあと、
「俺はどうなんですか?」
 と、無邪気に聞いてきた。
「すごくきれいな形してるよ」
 そう言うと、嬉しそうな顔をして笑ったから、彼のその表情をめちゃくちゃにしてみたいと思う。

 もう、三年生である。最上級生である。演劇部員であることにも、すっかり慣れた。講堂の空気は、相変わらず、くぐもっている。湿気が多いからだろう。でも、その空気を突き破るくらいに、みんなの声は通る。
「みどり、みどり、出番だよ」
 呼ぶ声がして、引き戻された。気がつくと、私を除く四人の部員が全員私を見ている。私を呼んでくれたのは、講堂にずらりと並んだ椅子の、私の隣に座っていた同級生の葵だった。
「ぼんやりしてちゃだめだよ、集中、集中」
 舞台から、部長の香織が叫ぶ。
 そそくさと舞台にあがる。なんとなく、本当になんとなく始めたものではあるが、演じることって結構楽しい。違う自分になれる、とか、新しい自分を発見できる、とかでなく、自分を忘れられることが嬉しい。そしてそれは決して、違う人物になっているわけではないのだ。
 舞台の上で、私は女刑事を演じる。よく、こういう役がまわってくる。みどりはかっこいいからだよ、と言われる。褒め言葉かもしれないけれど、特に、嬉しくない。その言葉の奥に詰まっている、ただの空気が見えてしまうから。

 私はおそらく歪んでいる。体の、精神の、その人全体を貫く芯みたいなものが、歪んで、ねじれて、壊れて、何かがぽろりと抜け落ちて、空洞が、少しばかり多い、そんな気が、いつもする。
 最初に言ったのは、この、芯のこと。みんな、大体きれいな形をしているふうに見える。でも、本当に芯が美しい人というのは、ごく稀だ。本当に芯が美しい人というのは、きれいな言葉を真剣に信じていて、空は永遠に青いと思っていて、人間は話せばみんなわかると考えていて、とても幸せな、そんな人。決して、こういう人のことを否定しているわけではない。寧ろ憧れさえある。樹海の闇のような色の、憧れがある。本当に芯がまっすぐで、美しくて、輝いてさえいて、眩しい。
 だから、時々思う。折ってみたいと。上から踏みつけて、蹴り飛ばして、殴って、もう形がなくなるくらいまで、人の芯を傷つけて損なって割って砕いて、そのわずかに残った、それでもまだきらめいているかけらを、愛おしく撫でてみたい。
 私は、これを恋と呼ぶ。

 空気がぼやけている。実際には、当然、透き通っているのだけれど、どうしてだろう、多分暑いから、ぼやけているふうに見える。ステージの上は、ライトが直接当たるので意外と暑い。部活中は常に、ライトに睨まれているわけだ。それは時たま、何か神めいたもののひとみにも見えたりする。今日も、くすんだ黄色みたいな色を、容赦なくぶつけていた。くすんでいるのは、多分、ほこりのせいだろう。一体、いつ掃除しているのだろう。
 三年女子部員総勢三人は、そんなわけですっかり気力を失くしていた。ステージの上、寝転び、タオルをうちわ代わりにし、せんすで扇ぎ、そして私はステージの端っこに、足を投げ出して座っていた。
「暑い!」
 部長の香織が、地球にまで文句をつけかねない勢いで言い、
「暑いね」
 葵が、眼鏡を押さえながら、微笑んで言い、
「うん」
 と私は頷く。
「何、これ。地球温暖化? もう、暑くってしかたないったら!」
「ああそういうの、授業でやったよね」
 こんな会話を聞くともなしに聞いていると、視界の端、客席のほうに、後輩二人の姿が見えた。唯一の二年生部員である考と、唯一の新入部員である美咲ちゃんだった。私の中に、なにか、ざらりとした炎のようなものが灯った。
 私はステージから飛び降りると、彼らのほうへ歩いていった。どのくらいでの速度で歩けば不自然でないかと考えながら歩いていたら、やはり不自然な速度になってしまった。
「こんにちは。何してんの?」
 気さくで話しやすい先輩、を演じる。同じ演技という言葉でも、舞台の上での演技と、日常生活での演技って、なんだか違う。いや、個性を大げさに強調していると言うべきか。舞台上の人間は、個性が強い。でも、日常であんなに個性の強い人物って、実際少ない。部員総勢五人の演劇部、舞台の上で演じるのは、当然個性の強い人物ばかり、自分の個性を完全にひっこめなくてはならない、という点において難しい。日常生活の演技は、自分の個性をどこまでのぞかせるか、という点において難しい。そして私は、どちらかといえば後者が得意。ときたま、自分が誰かに演じられている錯覚がするくらいに。だから、私は、私自身にだけは正直であろうとしているのだ。
「あっみどり先輩聞いてくださいよ、美咲のやつったら」
「だめです、言っちゃだめですよ考先輩」
 きゃっきゃとはしゃぐ美咲ちゃんは、かわいい。目はくりんと光を反射して、栗色の髪が、くすんだライトに映えている。どことなく日本人離れしている顔立ちだなぁと思っていたら、やはり、ヨーロッパの血が混ざっているクォーターらしい。
「へぇ。どうしたの?」
 私は、平静を装ってたずねる。
「それがですね」
「やめてください考先輩、もう、そのことは言っちゃだめです」
「なんで」
「だって、あれはさすがにないですよ」
「まあそれもそうだけどさ」
 談笑する二人を見て、悪寒がした。この二人は、二人だけの世界を作っている。私を招き入れるふりをしながら、その世界を見せ付けて、すごすごと、帰らせようとしている。そしてますます世界は強固になると、そういうわけだ。そんなみっともない真似はできない。私は、無理やりにでもその世界に入り込み、柱から、じわじわ、腐らせてやる。世界が滅んだときの、考の顔を見るために。
「えっなになに? なにがあったの?」
 私は考の肩に触れる。がっちりと、掴む。その勢いで、美咲ちゃんとは反対側の、考の隣の席を陣取った。
「どうする、美咲?」
「まあ、うん。言ってもいいんじゃないですか」
 美咲ちゃんは、つい先ほどまでとは態度が全然違う。ちょこんと座って、完璧な笑みを、顔に張り付かせている。私のほうに主導権が移ったのを、敏感に感じ取ったのだろう。十二歳にしては、勘がよくて助かる。美咲ちゃんと考の付き合いは、まだ、三ヶ月程度。私と考は、一年と三ヶ月の仲だ。中学生にとっての一年は、大きい。背が十センチ近く伸び、新しい感情を覚え、少しずつほこりにまみれていく。その一年を、私と考は共にしたのだ。声変わりのしていない考の声を、まだ私より背丈が小さかったころの考を、私ははっきりと覚えている。そして美咲ちゃんは、そのころの考を知らない。
 聞けば、たいした話ではなかった。美咲ちゃんは、この間の中間テストの理科、つまり彼女にとっては初めてのテストで、『葉緑体』を『よくりょうたい』と書いてしまったらしい。そして、そこに赤い矢印がひっぱられて、はてなマークが書かれていたらしい。面白くも、なんともない話だった。『へぇ、美咲ちゃんって意外と天然?』なんて、こんなこと死んでも言わない。
「大丈夫だよ。よくあるミスだから。私なんか、二年生のとき、『アミラーゼ』を『インベーダー』とか、真面目に書いちゃって」
「どんだけですか、先輩」
 考はやっぱりいつものように、声をたてて笑ってくれる。屈託のない笑い、ってこういうのを言うんだろうな、といつも思う。中学生にありがちな、耳にさわる甲高い部分や、人を小馬鹿にした下品さがかけらもみられない。一方で美咲ちゃんは、「先輩も、結構すごいですねー」とか言っている。美咲ちゃん、笑み、強張ってるよ、気持ちはわかるけどさ。
「美咲のもすげぇけど、先輩の、すごいですよ。何、その爆発的な勘違い。何をどうすれば消化酵素が宇宙人に」
「なんかさー、似てない?」
「似てないですよ」
「ほら、響きとかさ」
「似てないです」
 あとは、いつものじゃれあいだった。子猫と子犬が遊んでいるよう、と部長の香織に言われたことがある。それほど、私たちは、気を許しあっているということだ、と私は思っている。
 暗がりの隅っこで笑いをパリパリに乾かしている美咲ちゃんに、私はもう、興味が無かった。

 息を吸うと、胸いっぱいに、夕暮れが広がった。もうすぐ、夜が混ざるのだろう。地球が、太陽のまわりをぐるぐるまわっているだけなのに、私たちは太陽が沈んだと表現する。私たちは、地球の裏がわの太陽を、決して、見ることができないから。太陽はいつか疲れ果ててしまうだろうけれど、そのときのことなど、私の知ったことではない。
「あんたたちさ、仲いいのはわかるけど、部活中いちゃつくのも大概にしなさいよね」
 香織が溜息をつく。でも、これはポーズだ。腕を組んで、大げさに息をついて、苦笑いをする、そういうポーズ。
「ごめん、ごめん」
「すみません」
 ほぼ同時に言って、私と考は顔を見合わせて、息ぴったり、と、笑った。考の笑顔は、夕陽の色をしている。でも、何もかも紅色の世界に、考は、似合わない。考には、真っ青な青空が、やはり似合う。夏と冬なら断然夏、桜とひまわりなら断然ひまわり、そんな考までも自分の色に染めてしまう夕陽が、少しだけだけど、憎い。
「でもさ、仲いいのはいいことだよ」
 葵がにこにこと言う。
「まあね」
 私は興味がないふりをして言葉を投げる。
「まあ、なんだかんだ言って、ですね」
 やはり、考は投げた言葉を拾ってくれた。はにかむように笑う彼の顔は、紅色で、瞳は夕陽を受けて輝いていて、ねっ先輩、と、ひとかけらの悪意もなくじゃれついてくる考を見て、私は、この子の笑顔に影をつくる時期はそろそろだと確信した。だって、こんなに明るく笑っているから。微かな陰りさえ、感じられないから。
 もう、我慢の限界だった。

 みんなと別れてひとりになって、暗く闇に沈みこんでいく空の下で、考を思う。
 考と出会ったのは、去年の春。考は真新しい制服を着て、緊張した面持ちで、演劇部の見学にやってきた。こんにちは、演劇部の見学に来ました、と、まだ甲高かった声で、考は言った。演技が格段うまいわけでもなく、特別に格好いいわけでも、気だるい憂いを帯びたわけでもなく、普通の子、それもどちらかというと愚鈍な子に、そのときは思えた。終始、笑ってばかりいたからだ。
 そのまま社交辞令の関係が続いて、雨がしっとりと降る季節になったころ、私は、落ち込んでいた。演技がうまくできなかったり、クラスでうまくいかなったりして。苛ついてもいた。ただでさえ無愛想な私は、ますます無愛想になっていた。そんな私に誰も近づかないのは、至極当然なことだった。
 そんなとき、雨の音が響く校舎の、自動販売機の前で、考は言った。
「みどり先輩。もしかしてですけれど、最近、何かあったんですか?」
 考が、そんなことを気がつくなんて思ってもみなかったので、少しびっくりした。ジュースを自動販売機から取り出しながら、きいた。
「なんで?」
「なんとなく、元気がないな、とか思ったんで」
「……そっか」
「なんかあったら、よかったら言ってください。俺でよかったら、力になります」
 なんていう社交辞令。なんていう調子のいい言葉。
 でも、考の表情は真剣そのもので、瞳はまっすぐに、私を射抜くように見つめていた。何も知らない、子犬のように。話せばわかると信じている、子供のように。
 四日後の深夜、急に電話をかけた私の話を、考は真摯に聞いてくれた。うん、うん、と電話越しにうなずいて、共感して、悩んでくれた。
 底抜けのお人よしだと思った。たかが部活の先輩に、そんな時間を割くなんて。
 私は考に興味を持った。もっともっと、知りたいと思った。一度も屈折した態度を見せたことのない彼の、その奥底までも。


 家に帰ると、妹の携帯電話を略奪して、無断でメールアドレスを変更した。妹は、私立の中学校に通っている。小学校で、ひどいいじめを受けたせいだ。あいつのせいで、私はずいぶん嫌な思いをした。だから、携帯電話を借りるくらい、別にいいだろう。どうせ、メールする相手さえも、ろくにいないだろうから。
 携帯電話を使ってインターネットに接続し、馴染みのサイトへ向かう。背景は黒、文字は赤、目がチカチカするけど、それを我慢してでも、見る価値のあるサイトだ。私の学校の二年生の、裏サイト。隠しているつもりだろうけど、こんなもの、検索かければすぐに出てくる。
 考には、意外と臆病なところがある。『俺、嫌われてたりして?』と言うのを、たまに聞く。だからこそ、道化になるのだろう。切ないし、抱きしめてあげたい。別に、私以外に嫌われたって問題ない、そう気づかせてあげたい。
 願いを込めて、書き込みを送信した。

「俺もしかして、嫌われてるのかな」
 舞台の上、みんなでだらけているときに、考はとうとう言った。私は、この一言を、どれだけ待ちわびたか。
「どうしたの? 何か、あったの?」
 私は、思い切り心配そうな顔をして、考に近づく。沸騰しそうな喜びを、体の中にしまいこむのに、苦労しながら。
「いや、なんでもないですよ、なんでもないんですけど」
「悩みあるなら、言ってよ。演劇部の仲間なんだから」
 仲間。その言葉を反芻する。なんて、甘くて、むずがゆくて、空虚な言葉だろう。仲間同士でとろけあうのは、添加物たっぷりのキャンディーを、ずっとずっと舐めるようなものだ。甘ったるさを与えて消えていく、だから何も残らないだろう。残るのは、体の中にくすぶる添加物だけ。でも、それも、悪くない。舌に絡みついた甘い甘い味を、時折思い出せるなら。
「いや、ちょっと色々あって。特にたいしたことじゃ、ないんですけど」
 考の強がりが、手にとるようにわかる。顔に出やすいんだ。嬉しいときには笑うし、腹を立てれば眉間にしわを寄せるし、憂鬱なときは、こういう顔をする。無理して、唇だけを上げて、目にめいっぱい力を入れて三日月を作る。いつもの輝きがない。
 空気を吸うと、胸に溜まった。うずうずする。ぞくぞくする。そんな顔をされると、もっともっと、その美しい芯をへし折りたくなってしまう。
「何かあるなら、聞くよ? 最近、なんだか元気なさそうで心配してたんだ」
 考は笑って、ありがとうございます、と言い、でもすぐに、うつむいた。無理している。この子、無理している。だって、こんな仕草、以前の考ならしなかった。
「そっか。本当に、大丈夫?」
「はい。大丈夫です。本当、たいしたことじゃないんで」
「そう。でも、本当に、何かあったら聞くから。私でよければ」
 考はこちらを見て、ありがとうございます、ともう一度言い、笑うふりをした。

 そろそろ次の段階に移ってもいいだろう、と判断し、私は、妹の携帯を使って、考にメールを送った。
『書き込み見たよ あんたってそういう人だったの?』
 十分ほど開いて、返信がきた。
『誰ですか』
『二年一組の誰か』
 三十分ほど待っても返信がこなかったので、もう一度、送る。
『逃げるの?』
『あの書き込みは嘘です 俺はあんなことしてません』
『でもああいう書き込みあるってことは誰かしらがあんたに悪意持ってるってことだよね』
『もうメール送ってこないでください』
『これだけ言っとくよ あんた嫌われてるから 女子からも男子からも みんなあんたの前じゃ普通にしてるけどね 犯人探したって無駄だよ じゃね』
 最後の文末には、絵文字をつけておいた。手を左右に振っている絵文字。
 もちろん、こんなの、嘘だ。考は、クラスでうまくやっている。人気者、と言ってもいいくらいかもしれない。ただ、土台が、脆いのだ。嫌われる恐怖でできている土台は、少しつついてやれば、すぐに、壊れる。クラスの誰ともわからない人物が、自分に敵意を抱いている、これは、結構な重みになる。教室は、転落すれば、地獄と化すから。
 早く、押しつぶされてしまえばいい。その瞬間は、きっと、限りなく美しいだろうから。
 胸の底から、笑みがこみ上げてきた。

 考は、目に見えて消耗していった。私を含む三年生部員と話すときは、相変わらず元気そうにしている。でも、談笑したあと、背中を向けて去っていくとき、その瞬間に見える横顔は、もう、現実の景色を見てはいなかった。
 ジュース買ってきます、と講堂を出た考を見送る。背中が、ずいぶん、薄くなった。
「最近考くん、元気ないよね。どうしたのかな、あんなんじゃ困るよ。これから夏休みだっていうのにさ。あんなにぐったりしてられたら、練習に支障出ちゃう。ねえ、みどり、なんか知らない?」
 ああ、残酷。考のことを、部員としてしか見ていない。考という人間を見ていない。それは、優しさと呼ばれるのだろう。そして、とても正しい。でも、私は、考のことを好きだから、部活のこと関係なく好きだから、なんとなく、苛ついてしまう。でも、これは、誰がどう見たって、私が間違っていて、私が子供だろう。だから嫌いだ。正しさなんか。
「なんだろう、確かに元気ないよね。私も心配だったんだ。大丈夫かな?」
「うーん、何があったか知らないけど、部活はしっかりやってほしいよね。まったく、あんなんじゃ困るよ、確かに暑いけどさ」
 香織は、自信に満ち溢れている子だ。児童劇団に所属していて、実力がある。私の十倍はあると思う。自分の実力を信じて疑わない、そういう人の瞳は言動は、輝きすぎて、私には、痛い。
「きっと、なんか大変なことがあるんだよ」
 微笑みながら言うのは、葵だ。葵は、優しいと評判だ。人の話をにこにこ聞く葵は、私に言わせれば、他人に関心がないんだろう。どうでもいいんだろう。どうでもいいから、何も、言わないんだ。もしかしたら、世界に関心が無いのかもしれない。
「でもさぁ、誰にだって大変なことくらいあんじゃん。私たちだって受験だよ。私、夏は夏期講習詰まってるけど、ほら、あの学校受けるからさ、でも、文化祭目指してどうにかこうにかスケジュール調整したのに、だからってわけじゃないけど、やっぱりモチベーションの問題でしょ、こういうのって? だから、それを言い訳にしないでほしいなぁ」
 当たり前のことを、当たり前に、香織は言う。違うんだ、と私は思う。でも、何が違うのか、わからない。
「へえ、さすが香織。えらいね」
 葵はにこにこしているだけだった。特に、深い感想は抱かなかったらしい。
「でも、本当に、心配ですよね」
 美咲ちゃんは、私たちの輪の隅に、大人しく正座している。考とはしゃいでいるときとは、大違い。
「なんだか、色々あったみたいなんですけど、先輩たち、何か知りませんか?」
「だから、私がそれをきいてるの」
「葵先輩、何か知りませんか?」
「特に、何も知らないなぁ。心配だよね」
「みどり先輩は?」
 二つのビー玉が、私を見つめていた。よく見ると、それはビー玉ではなかった。美咲ちゃんの、黒目が大きすぎる瞳だった。それは、美しさというより寧ろ、いびつな感じを、私に与えた。
「私? うーん、知らないな。美咲ちゃんは? なんか、知ってる?」
「本当に何も知らないんですか?」
 私の目の奥底、硬い骨のあたりをのぞきこみ、質問を、質問で返してきた。
「知らないよ。知ってたら、話してるって」
 手を振って、笑った。
「本当ですか?」
 美咲ちゃんは、私の真正面に座っていた。私よりも、頭ひとつは小さい。まだ、十二歳だ。だからなのか、どうして、こんなにまじまじと、人を見れるのだろうか。なんだか怖くなってきて、私はさりげなく、目をそらした。
「うん」
 それだけ言って、講堂のドアを見上げた。あの向こうにいるはずの考を、想いながら。

 あらかじめ、メールアドレスを、いくつか考えてある。女子四人分と、男子六人分。それを、ランダムに使って、考にメールを送る。放課後から始まり、夕方、夜、深夜、明け方、朝までずっと。
『死ね』
『しゃしゃりすぎだよお前』
『気持ち悪い』
『今日話しかけてきたでしょ マジウザいんだけど 私がハブられるからもう話しかけないで』
 五日間、繰り返した。
 土日を挟んだ六日目の月曜日、考は学校を休んだ。そしてそのまま、その週は学校に来なかった。

「困るよ、本当に」
 香織は、大げさすぎるほどに、息を吐いた。
「まったく、何あったか知らないけどさ、そんなに軟弱じゃ、今後生きていけないよ」
 確かにこれでは、文化祭公演には、間に合わないだろう。もうすぐ夏休み。夏休みは、三年生が揃うことがあまりない。だから、夏休みまでの期間も、重要だったのだ。でももはや、私はそんなことどうでもよかった。
「部活を何だと思ってんだろ。遊びでやってるわけじゃないんだよ」
 香織が一通り、部活に対する考えを話した。立派で、強くて、でも強すぎる考えだった。
 私はそれを、適当に聞き流した。
「香織、今日ちょっと、早退していい?」
「なんで?」
「ごめん、ちょっと、家の用事」
「もう、そういうことはもうちょっと早く言ってよね」
「ごめん」
 愛想笑いを作り、荷物を手早く片付けて、考の家へ向かおうと講堂の扉に手をかけた。
「みどり先輩」
 美咲ちゃんが、舞台の中心に毅然と立って、私を、じっと見ていた。
「私も、ご一緒させてください」

 空は屋根みたいに低く感じられ、雲は空の水色と混ざり合い、よく区別がつかなかった。もう、すっかり夏だった。
 美咲ちゃんと二人で帰るのは、初めてだった。話したことさえ、あまりない。五人で群れて帰り道を辿るとき、美咲ちゃんは、いつも、あぶれていたから。
 美咲ちゃんの横顔は、端整ではあったけど、やはり、幼かった。学生かばんより、ランドセルが似合うだろう。
 美咲ちゃんは、学校を出てから、ずっと前の一点を凝視して、かけらも、笑顔を見せていない。なんだか、不気味だった。
「美咲ちゃん、家、どこ?」
「西町です」
 胸の中で、舌打ちをした。考の家と、方向が一緒だったからだ。
「へぇ、じゃあ、しばらく一緒だね」
「みどり先輩の家は、東町じゃないんですか?」
 どうでもいいことのように言ったから、気持ちの悪い違和感が残った。私の住所を、美咲ちゃんに知らせたおぼえは、一度もない。
「なんで知ってるの?」
「調べましたから」
 喉の奥に、感情が詰まった。
「……なんで?」
「みどり先輩」
 美咲ちゃんは、住宅街の電柱の隣で立ち止まり、まっすぐに、視線で、私を刺した。感情だけでなく、息まで、詰まった。
「もう、正直に言っちゃいます。みどり先輩。考先輩のことについて、何か知ってますか」
「それ、この間も、言ったよね、知らないって」
「真剣に聞いてるんです、答えてください」
「だから、知らないって」
 無理に、明るく言った。でも、声が揺れ始めているのが、自分でもわかる。必死に固定しようとするけど、呼吸が震えているから、それは無理な話だった。
 美咲ちゃんは、少しの間、沈黙した。微動だにしない美咲ちゃんを見て、もしかして、時間が止まっているのかもしれない、などと場違いなことを考えた。
「考先輩に、事情を聞いたんです」
 美咲ちゃんの声は、甲高いのに、透き通った湖の、はるか底から響いてくるようだった。
「帰り道、二人ですから、私たち。なんだか元気なさそうで、心配で。そうしたら、悪質なメールが来て、困ってる、って」
 悪質なメール、と表現したのは、考だろうか、美咲ちゃんだろうか、どちらにしても、大人びているのだろうか。
「中学にも、そういう馬鹿なことする人って、いるんですね。私、考えました。どうすれば、考先輩を救えるかって」
 救う、なんて傲慢だ、咄嗟にそう思った。
「それで、現実的な方法で、アプローチしてみたんです。だってそうでしょう? いくら精神的に、きれいな言葉で慰めたって、それはそれだけ。何も解決しません」
 そういう人生観も、ありなのかもしれない。でも、私は、好きじゃない。正しすぎるから。
「まず、考先輩のメールアドレスを知っているはずの人数を、アドレス帳で、調べました。四十七人いました。アドレス帳に登録されている人の中で、携帯電話の人は、三十九人。その三十九人の、携帯電話の機種を、調べました。ドコモが、十九人で、エーユーが、十三人で、ソフトバンクが、七人。その他は、いませんでした」
 授業の発表みたいに、美咲ちゃんは喋る。こういう喋り方、くせなのだろうか。だとしたらよしたほうがいい、きっと、煙たがられるから。
ソフトバンクの人たちの中では、親戚の人がひとりいました。この人は、除外するとして、つまり、六人、ソフトバンクの人がいるってことです。学校の知り合いで。……つじつまが、合わないんですよ」
 もう、自分の失態に、気がついていた。胸に、息が溜まっている。どれだけ呼吸をしても、入れ替わってくれない。
「悪質なメールを送ってくる人は、十人いました。みんな、ソフトバンクです。おかしいと思いませんか。誰かが、無断で考先輩のアドレスを教えたとします、それにしてもおかしいと思いませんか。みんながみんな、ソフトバンクなんて。おかしいですよね、これって、絶対」
 美咲ちゃんは、もはや、まくしたてていた。言葉の波の勢いが増す。きっと、そのまま、私を呑みこむ気だ。
「『話しかけてきて、ウザい』という内容のメールがきたらしいんですよ。だから、言ったんです、今日は誰にも、自分からは話しかけないでみてくださいって。それでも、その夜、きたんですよ、もう明らかにおかしいですよね。それで、クラスメイトを除外して、残り、ソフトバンクっていうと」
 言葉を切った。そこで切らなくていいのに。美咲ちゃんの瞳、湖をたたえたビー玉の色合いが、深くなったように思えた。
「みどり先輩しか、いないんですよ」
「偶然じゃない?」
 足掻きだなんて、わかっている。それでも、溺れないように、泳ぐしかないじゃないか。
「考先輩言ってましたよ、みどり先輩は違うから、絶対に違うから、あんなによくしてくれる人がこんなことするわけないから、だから、絶対に、みどり先輩には言わないでくれって……言ってましたよ。考先輩を、裏切らないでください、だから、答えを言ってください」
 ここで、考を出してくるなんて、ずるい。
「どうなんですか、みどり先輩」
 ビー玉の中の湖に、波が立っている。やっぱり、こういうところは、子供だった。他人事なのに、奇妙に安心した。
「どうなんですか!」
 その声は、夕暮れを帯びてきている空に、気だるそうな住宅街に、高く響いた。
 私は、何も言わない。
「認めるんですよね、何も言わないってことは、認めるんですか? そうなんですよね? 否定しませんもんね?」
 口の端が、勝手に持ち上がってしまった。それは、開き直りからか、それとも、自嘲からか。どちらにせよ、それは、美咲ちゃんを激昂させた。美咲ちゃんは、私のことを、毛虫でも見るかのような目で、おぞましそうに、見た。
「最低ですよ」
 美咲ちゃんは、深く息を吸った。
「最低です。それしか言えません。……お願いです。もう、考先輩には近づかないでください。お願いです」
 私は美咲ちゃんの湖を、ただ眺めていた。既に、湖面は静かに水をたたえていた。
「あなたみたいな、最低で、最悪の人がいるから、世界はちっともよくならないんです」
 そう言って、美咲ちゃんは初めて視線をそらした。その瞬間、私の呪縛、でもいうようなものが、解けた。
「わかんないでしょ。美咲ちゃんには」
 美咲ちゃんの視線が、すばやく私に戻される。
「考見てるとさ、なんか、あの子幸せすぎない? 汚いことなんて、なにひとつ知らない気がしない? だからさ、そういうことだって、ちょっとは知ってたほうがいいと思って」
 そして、哄笑した。喉に溜まっていた感情は、つまり、こういうことだったのだ。
「ああいうふうに幸せな人見るとさ、そういうことしたくなるの。呑気にかまえてて……ね、でもそれが大人になるってことでしょ? ほこりをかぶるってことでしょ?」
「ふざけないでください」
 美咲ちゃんの声は、普段からは想像できないほど、低く、地を這っていた。
「考先輩が幸せだとか、いつ、わかったんですか。何が幸せで、何が不幸ですか」
「家とかも、うまくいってそうじゃん、私なんかみたいじゃなく」
「考先輩は父子家庭です。下に四人います。毎朝新聞配達してます。考先輩本人は、放っておかれて、ほとんど、かまってもらったことがありません」
 息が止まった。
「でも、」
「考先輩、大変でした。本当に大変でした。色々あって、悩んで苦しんで、やっと手に入れた学校生活を、どうして、邪魔するんですか!」
 瞳の湖は、荒れていた。この程度で涙を流すなんて、感傷的すぎる。
「凡愚ですね」
 美咲ちゃんは、搾り出すように言った。
「え?」
 耳に慣れない言葉を、ききかえした。
「凡愚ですよ、みどり先輩は。自分だけがつらいと思ってて、他人は幸せだって思ってて、凡愚ですよ。それ以外の、なにものでもないです。……不愉快だから、帰ります」
 そう言って、去っていった。
 美咲ちゃんの背中は、あの日、考を照らした色と、同じ色に染まっていた。私自身さえ、同じ色に照らされて、私は、呆然と立ち尽くしていた。

 何もわかっていない。美咲ちゃんは、何もわかっていない。私がどれだけ、考のことを愛しているか。考のことを一番思っているのは、私なのだ。なのに、どうして、まるで、自分が正しいかのように、彼女は話すのか。正しいのは、私で、間違っているのは、彼女のはず。それなのに、あの夕方以来、考から連絡はない。電話をかけても、電源が切ってある。何も知らないのだ。考は、何も知らない。私だけが、考の理解者であることも、知らない。誤解だ、と叫びたかった。でも、いったい何を誤解されているのかが、わからない。
 部屋にいるときは、携帯電話を眺めて過ごす。考から、いつ、着信があってもいいように。鳴らない携帯電話の前で、私はろくに眠れない。ほら、これほどまでに、私は考を愛している。
 うつらうつらしていると、いきなり携帯電話が震え始めた。振動音と、けたたましい着信音。すぐに出る。
 でも、考ではなかった。香織だった。香織は、普段からは想像できないほど、淡々と、ことの次第を告げた。私が、考にメールを送っていた「犯人」であることを知ったこと。考はショックで、とても落ち込んでいて、でも、美咲ちゃんが「寄り添うように」慰めていること。私がどれだけ、考や美咲ちゃんや、演劇部を傷つけたか。最後に、ゆっくりと、しかしきっぱりと、辞めてほしい、と言われた。私は承諾した。香織の言い分は筋が通っていて、否定する余地がなかったのだ。香織は最後に言った。
「みどりがそんな最低なことするとは思わなかったよ」
 そして、間をおかずに、電話を切られた。虚しく響く電子音だけが、残された。
 すべてが遠ざかってゆく。さまざまなことを誤解して、美咲ちゃんのことを、正しいと思い込んだまま。
 私は考に、十回くらい電話をかけた。でも、考はやはり出なかった。真っ暗な部屋で、私はひとり、携帯電話を握り締める。
 このまま、溶けてしまいたかった。もう、どろどろで、何も考えられない。

 演劇部を退部してから二週間、終業式のあと、考とすれ違った。肩がぶつかって、謝ろうとした考は、私だとわかった瞬間、笑顔を固まらせた。「行こうぜ」と同級生に促されるまで、ずっと。
 もう二度と、考は私に微笑みかけない。
 放課後は、暇になった。惰性で家に帰る。そしてひたすら、自分の軽率さを苛む。
 もうすぐだったのに。もうすぐで、考の芯を、折ることができたのに。それを修復してしまったら、意味がない。そんなの、ちっとも、きれいじゃない。どこにでもある、平凡な、みにくい芯の形だ。それなら、いっそ、あのままでよかったのに。違う、私だけを、見てもらいたかっただけなのに。
 考。
 見上げると、憎いほどに真ん丸い月が、ぽっかりと、私を嘲笑っていた。

               (終わり)