柳なつきのブログ

柳なつきのブログです。

それでも世界はうつくしい。

 純粋だ、と言われることがある。
 世のなかの裏を知らない、と言われることもある。

 小説を書くには、もっと世のなかの裏というものを知ったほうがいいんじゃない? と言われたことも、一度や二度ではない。

 私はおそらく、きれいな世界に住んでいる。私の世界の空は青く、星はきらめいているのだ。
 社会というものが、よくわかっていない。
 私はまるで十四歳みたいだ。

 それでいい、と思う。

 私に才能というものがあるとしたら、その一点に尽きると思うのだ。
 世界をきれいだと思える才能。
 それはあるいは、思い込み、かもしれないけれど、でも、それでも。
 世界は、きれいだ。

 そこまで甘っちょろい人生を送ってきた気はない。
 汚いことだって、それなりにふれてきた。
 それでも、やっぱり。

 世界は、うつくしい。

 そう言い切れることを、私は幸福に思う。

 だって、だからこそ私は、小説というものが書けるのだから。

問いで救済できるのか?/映画『リリイ・シュシュのすべて』

「少年少女のころというのは、傷つく存在なのか。」

 あのころ、窮屈な制服に身を包みながら、こうは自問しなかっただろうか。「どうして傷つけてしまうのだろう。どうして傷つけてしまうのだろう。」

 そしていまはもう少し、違ったかたちで問いを思う。

「少年少女というのは、どうして傷つかなければいけないのだろう。」

 

 このみっつの問いのうち、どれが一番、「救済」に結びつくだろうか。

 

リリイ・シュシュのすべて』を、観た。再鑑賞。

 このみっつの問いは、『リリイ・シュシュのすべて』を観て感じたことだ。

 

 これらの問いは、一見似ているけれど非なるものだ。

 なにが違うって性質が異なる。

 

「少年少女のころというのは、傷つく存在なのか。」

 これは、普遍的な現在。

 普遍的な現在というのは、ちょっと乱暴に言ってしまうのならば、私もあなたも、学校では傷なんかと無縁な小学生のAちゃんもむかし学校で傷を受けた大学生のBくんも学生時代に傷ついたことなんてないサラリーマンのCさんも、みんなが理解できること。実感としてわからずとも、理屈はわかるということ。それはつまり、経験の有無にかかわらず、ということだ。定理に近いと思う。「内角の和は90度である。」なんて、数学の定理と比べたら数学者のひとがどう思うかわからないけれど、でも私はそう思う。定理も「定理」である以上、きちんと検証がなされているはず。定理というのは、「ある理論体系において、その公理や定義をもとにして証明された命題で、それ以降の推論の前提となるもの。」(デジタル大辞泉)ということだから。「少年少女のころというのは、傷つくものだ。」という命題も、たとえばエリクソンのアイデンティティ説なんかで、証明、されようとされているのではないだろうか。その証明の是非や真偽は置いておくとしても、すくなくともこの「少年少女のころというのは、傷つく存在なのか。」という文章は、命題たりうるのではないか、と思う。

 

「どうして傷つけてしまうのだろう。どうして傷つけてしまうのだろう。」

 これは、個人的な過去。

 この問いはあくまで、「私」の問いだ。ある一点においてのみ存在しうる私、つまり2004年でも2006年でもいいのだけれどとにかくX年において群馬県某市の某中学校に通っていた「私」、その自我が感じて思った問いに過ぎない。過ぎない、というと少し突き放しているみたいだ。もちろんこの問いはすごく大切だ、すくなくとも「私」の人生においてとても強い意味を持つ。なにより、あのころの「私」にとって大切だ。個人的には、ずっといっしょに歩みたい問いだ。でもそれは、ほんとうに個人的な範疇を出ない。「私」がこう「感じた」からこう「思う」という、それだけのことに過ぎない。要は、「日記」のたぐいである。

 

 普遍的な現在、というのはいくぶん論理的すぎる気がする。立派だけれど無味乾燥だ。生身の人間を、なかなかすくえない。

 個人的な過去、というのは似たような経験をしたひとには共感を呼ぶかもしれないが、それ以上でも以下でもない。それ以外のひとを、すくえない。

 

 そして思考は、ひとつ進む。

 

「少年少女というのは、どうして傷つかなければいけないのだろう。」

 これは、倫理的な未来。そして、過去現在未来すべてをつらぬく数直線でもある。

 ひとことで言ってしまえば、この問いを問うことで未来が変わる可能性がある、ということだ。それは現在が変わるということと同義だ。でも私は、あえてそれを未来と呼びたい。まだ来ていない、そのとき。そこにあると思い込み、変えられると思い込んで、結果的に現在を変えることのできる未知の時間。

 私たちのように傷ついた少年少女というのはたしかにいて、私たちはどうしても問うてしまうものだと思う、「どうして私が傷つかなければいけないのだろう。」そして時間が経っても思うかもしれない、「どうして私が傷つかなければいけなかったのだろう。」それはそれ自体、必要な問いだ。しかしそれを、一歩押し広げてみたら?「少年少女というのは、どうして傷つかなければいけないのだろう。」になるはず。そういう意味で、この問いは過去現在未来をつらぬいているのだ。

 そして、未来につながる。きっと。

 

 傷つく少年少女が減ったらいい、とは思わない。

 けれど、最後にみんな少し優しくなれるような、そんな世界だったらいいのにな、とは思う。

 そのために、問いは救済につながる可能性が少しでもあるのか、延々検証してみたのだ。

 

 これが、『リリイ・シュシュのすべて』です。

 すっごく、美しいです。

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

 

 

作品としてのブログ。(はじめましてのご挨拶)

 はじめまして。柳なつきと言います。

 

 私はいままでもブログをやっていたし、今後もそのブログを閉じる気はない。

 それなのに新しいブログを開いたのには、わけがある。

 

「作品」としてのブログを創り出してみたい。

 

 私がいままで書いていたブログは、「日記」である。

 感情の吐露。私情の暴露。そういったもので、成り立っている。

 そういったものに、意味がないとは思わない。読んでもらって、うんうん、とうなずいてもらって。「共感」を得るというのは、人間の営みにとって非常に大切なことだ。

 だが、しかし。

 そうではなく、「作品」としてのブログを、書きたいと思ったのだ。

 

「作品」と名乗るからには、なんらかの価値があるものでなければならないと思う。

 私の思う「作品」とは、「情報を共有できるコンテンツ」だ。この情報というのには、楽しい、といった感情や、面白い、といった感想も含まれる。

 たとえば私になんらかの感動があったとして、その感動を他者になにかのかたちで伝えられれば、そのかたちというのは「作品」だ。

 当感動というのは、なにもハンカチ片手に大泣きすることだけを言うのではない。感じることが、動く。それが、感動だ。つまり、面白い腹立たしい悲しい楽しい、そういった感情を情報として伝えられれば、このブログにもひとつの強い意味があったと言っていいのかなと思っている。

 

 難しいことを、簡単な言葉で言う。

 これは、私がずっと思ってきたことである。

 

 書く内容、だが。

 なにか具体的な「もの」があって、それに対して感じたこと考えたことを書く、というスタンスでいきたい。

 書籍の感想とか映画の感想とか、あとは特定のものごと(思想に哲学に宗教といったものごとや、人間関係や恋愛や学校というものごと。テーマ、という言葉も近いかも)にかんする考えかたとか、そういったことを中心に書いていきたい。

 

 どうかよろしくお願いします。

 

 いままでやっていて、そしてこれからも閉じる気がない「日記」なブログは以下。

「ブロックバター革命。」http://natsuki0710.blog120.fc2.com/

愛子はコーヒーの海で

愛子はコーヒーの海で


 缶コーヒーの、基本的な用途とはなんだろう。
 まあ、まず真っ先に浮かぶのは、飲むこと、だろう。当たり前すぎることかもしれない、だってコーヒーとは飲みものだから。でもわたしはひとつひとつ考察してゆきたいのだ、缶コーヒーの用途を。この季節だ、カイロ代わりに自分の手を温めたい、とか。あるいは、恋びとの手を温めたいなんてこともあるかもしれない。ロマンチックで、馬鹿げている。空き缶を集めるのが好きで、買うひともいるかもしれない。その気持ちは、わからなくもない。わたしも、ちまちまとしたものものを集めるのは、好きだ。
 しかし、ざっとこんなところだろうか。缶コーヒーとは、ドリンクでありときどきカイロでありまれにコレクションであり。うん、そんなところだろう。一般人の思いつく缶コーヒーの用途なんて、しょせん。
 ところがわたしは違うんだな、ひと味も、ふた味も。
 どうせあいつらだって、こんなこと考えもつかないに違いない。そう思ったら、くつくつ笑いたい気持ちになった。
 冬の公園、光をろくに通さない曇天のもと。
 自分の誕生日会を抜け出してきたわたしは、自動販売機で温かい缶コーヒーをがちゃがちゃと買った。買っては取り出し買っては取り出し、バッグに入れた、この八つの缶はわたしの武器。

 もともと、人間なんか嫌いだ。醜いし、よく嘘をつく。
 でも、悲しいかな、人間というのはわたしも含め、他者とかかわらないと生きてゆけない存在だ。ひとりでいると、自分のかたちをだんだん保てなくなってゆく。それこそコーヒーみたいに、液体になって、少しずつ蒸発してしまう。あとに残るのは茶色の染みだけ。そういうものだ。
 だからいままでわたしは、つとめて他者とかかわってきた。大学ではサークルに入ったし、バイトもしたし、なにかのイベントには積極的に参加してきたし……われながら、よくがんばったと、思う。人間嫌いのわたしが、人間の前でにこにこ笑っているなんて!
 しかしいまさっき、おめでとうおめでとうとわたしの誕生日を祝うふりをする空虚な唇たちを見つめて、ふと気づいた。
 ああ、そうか。
 媚びるだけが、人間関係じゃないんだ。
 嫌いなら、嫌いと叩きつければいい。
 あんたらなんか、大っ嫌いだって。
 べつに、あんたらがなにかしたわけじゃないよ。あんたらが、人間であるのがわるいんだ。

 きょうは、わたしの誕生日会だ。高校時代からの知人が企画し、大学の先輩や元バイト先の先輩やオフ会での知り合いなど、ごった煮である。わたしを含めて、ぜんぶで八人。小さくて洒落たカフェバーを借り切って、わいわいと騒いでいる。お店の迷惑なんじゃないかってくらいに。わたしの誕生日会とか言いながら、けっきょくのところ、騒ぐ口実がほしいだけなのだこいつらは。
 戻ってきたわたしに、だいじょうぶ? と声がかけられる。ずいぶん長く、席を外していたけれど、と。だいじょうぶだよ、とわたしはにこやかに返すが、だいじょうぶ? なんて聞かれるのはとても不愉快なことだ。だってここで、だいじょうぶじゃない、と返したら、いったい彼らはどんな表情をするのか。心配よりもなによりも先に、白けるのではないだろうか。
 わたしの根底にあるのは、人間への不信感だ。
 笑い声にはしゃぎ声。誕生日席のわたしを中心に起こるそれら。ああうるさい、うっとうしい。
 カラフルな料理の残りかすを見つめながら、あははと読み上げるように笑っていると、きょうのメインである、誕生日ケーキが運ばれて来た。店に追加料金を払って、あらかじめ用意してもらっていた、型どおりの誕生日ケーキ。だれが注文しても、おなじものが出てくる誕生日ケーキ。
「えー、宴もたけなわということで」
 わたしの誕生日会を企画した、高校時代の知人が場を仕切る。目立ちたがりのはしゃぎたがりな彼女。目ばかりぐりぐり大きくて。
「誕生日ケーキが、やってまいりました!」
 拍手が起こる。きょういちにちで、わたしの知り合いたちはずいぶんと仲よくなったみたいだ。よかったね、と吐き捨てたくなる。
 彼らはハッピーバースデーの歌をうたいはじめる。ある者は身体を揺らし、ある者は手拍子をして、じつに楽しそうに。
 ♪ハッピーバースデー あいこー
  ハッピーバースデー あいこー
 わたしはろうそくの火を見つめて思う、愛子なんて、愛子だなんて、わたしにいちばん似合わない名前だ。運命とは、皮肉なものだ。人間を愛せないわたしが、愛子だなんて。
 調子のまるで合ってないその歌を聴きながら、わたしは思う。
 いよいよ、だ。
「おめでとう!」
 歌が終わり、ひゅうひゅう、と口笛が飛んでくる。だれもがいま、わたしに火を吹き消すことを期待していた。わたしは満面の笑顔をつくり、口を開く。
「ありがとう」
 そして立ち上がり、バッグから缶コーヒーを取り出し、素早く栓を開けると、誕生日ケーキに半分ほどその中身を注いだ。火はあっというまに消え、ケーキは茶色にぐんにゃりとする。
 人間たちが、固まる。
「……そ、それってなんかの余興、愛子?」
 高校時代の知人が、おそるおそる、という感じで言った。しかし、その表情はこわばっている。理解できないものを見るまなざし。
 わたしは笑顔のまま、つぎの缶コーヒーを取り出して、彼女にぶっかけた。自慢の金髪が、茶色に汚れる。
 彼女は最初きょとんとし、つぎに驚き、そしてついには怒りをあらわにした。
「……ちょっと、なにすんのよ!」
 いきり立つ彼女は無視して、わたしはわたしを口々に咎めるほかの人間たちにもつぎつぎとコーヒーをかけてゆく。いち、にい、さん、とこころのなかで数をかぞえながら。茶色く染まってゆく彼ら。
 場は、奇妙に静まりかえる。わたしは、もはや無表情だった。
 ぐったりとしてまずそうなケーキを冷たく見下ろし、わたしは最後の缶コーヒーを手にとる。それは、ケーキにかけて残しておいた缶コーヒーだった。
 人間が店員を呼ぶ声が、遠い。人間が怒り狂う声が、遠い。わたしだけ、水のなかにいるみたい。ううん、わたしはきっといま、コーヒーのなかにいる。コーヒーに溺れて、もう、清潔になることはできない。
 わたしは――自分の頭に、コーヒーをぶっかけた。
 砂糖いっぱいのコーヒーは、甘ったるく、しかしそのなかにきちんと苦みもあった。わたしはこの味のなかで生きてゆくんだ、これからは、と思った。
 わたしは、ずっと、蹂躙したかった。
 人間を、めちゃくちゃに蹂躙したかった。

 二十歳の誕生日――。
 わたし、愛子は、コーヒーの海へ飛び込んだ。

甘味料の味は切ない

 もはや勢いのみで突っ走ってる、小説というよりはポエムな三題噺。


natsuki0710さんは、「夕方の公園」で登場人物が「噛み付く」、「飴」という単語を使ったお話を考えて下さい。#rendai http://shindanmaker.com/28927

甘味料の味は切ない

 いったいあなたは、だれを愛するのよ。
絶望感たっぷりにそう叩きつけてやりたくって、でも、そんなこととてもじゃないけれどできなくって、だから私は、空気のかたまりを呑み込んでうつむいた。惨めだ、と思った。
夕方の公園。冬の夕暮れは容赦なく、私たちを闇に連れ込もうとする。制服すがたの私たちは、それでもわがままな子どものようにかたくなに、ベンチから動こうとしない。ひたひた、ひたひた。闇は、皮膚から浸透してゆくかのようだ。侵されて、しまいそう。でもそんなことさせないさせるもんか、私を侵すのは、あなただけで充分なのだから。
夜の闇よりも暗いこころを持つ、あなた。
私は、あなたの一挙一動をじいっと見つめている。学ランすがたのあなたは、ときおり、ふう、とため息をつく。そのため息はいったいなにを意味しているのねえねえねえ、訊きたくって問いただしたくって堪らなくて、でも、そんなの重たすぎるって自分でもよくわかってるから私は我慢してなにも言わない。
そう、我慢。
あなたとうまくやってゆくには、ううん、あなたのこころを私に開いたままにしてもらうには、我慢ということが、ぜったいに必要なのだ。
 ふう、とふたたび、ため息。息が白い、あなたのこころはあんなにも黒いねばねばにとりつかれているというのに、どうして口から吐かれる息は、こんなにも白いのだろう。
この寒空のしたふたりでいるというのは、きっと奇跡だ。なんて、陳腐なことをまた。
私は、なんだか感極まってしまって、いよいよ訊いてしまった。
「……なに、考えてる?」
「んー、いや。たばこ、吸いたいなあって」
「未成年でしょ」
「いやー、たばこなんてね、吸わないほうがいいですよ」
 あきらかに、吸ってるひとの言いかた。ねえ、あなたは肺もこころも、もう、取り返しつかないくらい真っ黒なの。
 あなたが、いとしい。
いとしくて。いとしくて。
つい呟いて、しまうのだ。
「……なんで」
「え?」
「なんで、どうして、私じゃ駄目なの……」
 私なら。
私なら、あなたのことをわかっているよ。
あなたがたとえ黒いひとであったって、それだってぜんぶ受け容れるよ……。
 彼は答えず、ポケットから飴玉のふくろを取り出して、舐める? と、訊いてきた。
「……ううん、いらない。あ、でも、和樹の舐めた飴なら舐める……」
「こら、変態発言」
「いいもん、どうせ、変態だもん」
 恋びとでも、ないくせにね。
あなたは、飴を舐め始める。落ち着かないときの、あなたの癖。なにかを口に入れるのって、幼児退行のあかしかもよ?
光の残滓も、いよいよ消えそう。私は、決めなければいけない。いま。ここで。
「私なら、和樹をいちばん愛せるよ」
「知ってる」
「私は、和樹を愛しているよ」
「知ってる」
「でも、駄目なんでしょう?」
「……うん、そうだね」
 ああ、残酷なあなた。
でも、それは優しさなのかもね。
吐きたくなるほど、気持ち悪い。
「和樹」
 私は優しく呼んで、あなたをこちらに振り向かせ――その甘い甘い唇を、思い切り噛んだ。千切れるほどの、勢いで。
 あなたは目をまんまるにして、言葉にならない声を発する。かぎりなく焦った声で、痛い、なにするんだよ、痛いだろ、とかそんなようなことを言っているようだ。ああ、可愛いなあ、どうしてこんな可愛いあなたが、私のものにならないのだろう……。
これはね。
私の、私なりの、あなたへのキスだから。
だから、痛くてもちょっと、我慢して、ね。
私のものにならないあなた。私のほかを選んだあなた。そんなあなた、いなくなってしまえ。嘘。ずっといて。永遠に、生きていて。私のそばにいて。私から、離れないで。私を見捨てないで。私を、
嫌いに、ならないで。
あなたの唇は、甘かった。たっぷりと、しかしぱさついた、人工甘味料の味。
私の愛はきっとこの味なのだ。

愛子はコーヒーの海で

愛子はコーヒーの海で


 缶コーヒーの、基本的な用途とはなんだろう。
 まあ、まず真っ先に浮かぶのは、飲むこと、だろう。当たり前すぎることかもしれない、だってコーヒーとは飲みものだから。でもわたしはひとつひとつ考察してゆきたいのだ、缶コーヒーの用途を。この季節だ、カイロ代わりに自分の手を温めたい、とか。あるいは、恋びとの手を温めたいなんてこともあるかもしれない。ロマンチックで、馬鹿げている。空き缶を集めるのが好きで、買うひともいるかもしれない。その気持ちは、わからなくもない。わたしも、ちまちまとしたものものを集めるのは、好きだ。
 しかし、ざっとこんなところだろうか。缶コーヒーとは、ドリンクでありときどきカイロでありまれにコレクションであり。うん、そんなところだろう。一般人の思いつく缶コーヒーの用途なんて、しょせん。
 ところがわたしは違うんだな、ひと味も、ふた味も。
 どうせあいつらだって、こんなこと考えもつかないに違いない。そう思ったら、くつくつ笑いたい気持ちになった。
 冬の公園、光をろくに通さない曇天のもと。
 自分の誕生日会を抜け出してきたわたしは、自動販売機で温かい缶コーヒーをがちゃがちゃと買った。買っては取り出し買っては取り出し、バッグに入れた、この八つの缶はわたしの武器。

 もともと、人間なんか嫌いだ。醜いし、よく嘘をつく。
 でも、悲しいかな、人間というのはわたしも含め、他者とかかわらないと生きてゆけない存在だ。ひとりでいると、自分のかたちをだんだん保てなくなってゆく。それこそコーヒーみたいに、液体になって、少しずつ蒸発してしまう。あとに残るのは茶色の染みだけ。そういうものだ。
 だからいままでわたしは、つとめて他者とかかわってきた。大学ではサークルに入ったし、バイトもしたし、なにかのイベントには積極的に参加してきたし……われながら、よくがんばったと、思う。人間嫌いのわたしが、人間の前でにこにこ笑っているなんて!
 しかしいまさっき、おめでとうおめでとうとわたしの誕生日を祝うふりをする空虚な唇たちを見つめて、ふと気づいた。
 ああ、そうか。
 媚びるだけが、人間関係じゃないんだ。
 嫌いなら、嫌いと叩きつければいい。
 あんたらなんか、大っ嫌いだって。
 べつに、あんたらがなにかしたわけじゃないよ。あんたらが、人間であるのがわるいんだ。

 きょうは、わたしの誕生日会だ。高校時代からの知人が企画し、大学の先輩や元バイト先の先輩やオフ会での知り合いなど、ごった煮である。わたしを含めて、ぜんぶで八人。小さくて洒落たカフェバーを借り切って、わいわいと騒いでいる。お店の迷惑なんじゃないかってくらいに。わたしの誕生日会とか言いながら、けっきょくのところ、騒ぐ口実がほしいだけなのだこいつらは。
 戻ってきたわたしに、だいじょうぶ? と声がかけられる。ずいぶん長く、席を外していたけれど、と。だいじょうぶだよ、とわたしはにこやかに返すが、だいじょうぶ? なんて聞かれるのはとても不愉快なことだ。だってここで、だいじょうぶじゃない、と返したら、いったい彼らはどんな表情をするのか。心配よりもなによりも先に、白けるのではないだろうか。
 わたしの根底にあるのは、人間への不信感だ。
 笑い声にはしゃぎ声。誕生日席のわたしを中心に起こるそれら。ああうるさい、うっとうしい。
 カラフルな料理の残りかすを見つめながら、あははと読み上げるように笑っていると、きょうのメインである、誕生日ケーキが運ばれて来た。店に追加料金を払って、あらかじめ用意してもらっていた、型どおりの誕生日ケーキ。だれが注文しても、おなじものが出てくる誕生日ケーキ。
「えー、宴もたけなわということで」
 わたしの誕生日会を企画した、高校時代の知人が場を仕切る。目立ちたがりのはしゃぎたがりな彼女。目ばかりぐりぐり大きくて。
「誕生日ケーキが、やってまいりました!」
 拍手が起こる。きょういちにちで、わたしの知り合いたちはずいぶんと仲よくなったみたいだ。よかったね、と吐き捨てたくなる。
 彼らはハッピーバースデーの歌をうたいはじめる。ある者は身体を揺らし、ある者は手拍子をして、じつに楽しそうに。
 ♪ハッピーバースデー あいこー
  ハッピーバースデー あいこー
 わたしはろうそくの火を見つめて思う、愛子なんて、愛子だなんて、わたしにいちばん似合わない名前だ。運命とは、皮肉なものだ。人間を愛せないわたしが、愛子だなんて。
 調子のまるで合ってないその歌を聴きながら、わたしは思う。
 いよいよ、だ。
「おめでとう!」
 歌が終わり、ひゅうひゅう、と口笛が飛んでくる。だれもがいま、わたしに火を吹き消すことを期待していた。わたしは満面の笑顔をつくり、口を開く。
「ありがとう」
 そして立ち上がり、バッグから缶コーヒーを取り出し、素早く栓を開けると、誕生日ケーキに半分ほどその中身を注いだ。火はあっというまに消え、ケーキは茶色にぐんにゃりとする。
 人間たちが、固まる。
「……そ、それってなんかの余興、愛子?」
 高校時代の知人が、おそるおそる、という感じで言った。しかし、その表情はこわばっている。理解できないものを見るまなざし。
 わたしは笑顔のまま、つぎの缶コーヒーを取り出して、彼女にぶっかけた。自慢の金髪が、茶色に汚れる。
 彼女は最初きょとんとし、つぎに驚き、そしてついには怒りをあらわにした。
「……ちょっと、なにすんのよ!」
 いきり立つ彼女は無視して、わたしはわたしを口々に咎めるほかの人間たちにもつぎつぎとコーヒーをかけてゆく。いち、にい、さん、とこころのなかで数をかぞえながら。茶色く染まってゆく彼ら。
 場は、奇妙に静まりかえる。わたしは、もはや無表情だった。
 ぐったりとしてまずそうなケーキを冷たく見下ろし、わたしは最後の缶コーヒーを手にとる。それは、ケーキにかけて残しておいた缶コーヒーだった。
 人間が店員を呼ぶ声が、遠い。人間が怒り狂う声が、遠い。わたしだけ、水のなかにいるみたい。ううん、わたしはきっといま、コーヒーのなかにいる。コーヒーに溺れて、もう、清潔になることはできない。
 わたしは――自分の頭に、コーヒーをぶっかけた。
 砂糖いっぱいのコーヒーは、甘ったるく、しかしそのなかにきちんと苦みもあった。わたしはこの味のなかで生きてゆくんだ、これからは、と思った。
 わたしは、ずっと、蹂躙したかった。
 人間を、めちゃくちゃに蹂躙したかった。

 二十歳の誕生日――。
 わたし、愛子は、コーヒーの海へ飛び込んだ。

革命は、続く。

 ブログを再開しようと思ったのには、わけがある。

 それは、人目にふれる文章を書きたい、ということ。
 人目にふれて、反応がもらえれば、もっといい。

 いままで、いろいろ書き散らかしてはきた。
 ブログをはじめ、ミクシィツイッター、クローズドの掲示板にオープンな掲示板、いろいろなところに、私の軌跡は残っている。「柳なつき」で検索すれば、まあまあヒットするはずだ。
 もっと話を押し広げれば、小説だって書いて公開してきた。短いものを、何本も何本も、懲りもせずに書いた。

 しかし残念ながら、それらの文章には決定的で致命的な共通点がある。
 それは、他者の目を意識していない、ということ。

 そもそも私が書き始めたのは、この世界への呪詛をどこでもいいから吐き出したい! という想いからであった。
 小学生のころから私は根本的に世界に馴染めず、中学生になってくるとその傾向はますます顕著だった。中学生、というのは、私がそれなりに書き始めたときである。
 生きていれば自然と、世界への恨みつらみは溜まってゆく。それほどに、私は社会不適合であった。
 恨みつらみを溜め込んで、自分が真っ黒になる前に、どうにかしようと、つまりは自己救済のために私は書いていたのだった。
 その癖は、高校に入っても大学に入っても直らなかった。

 この文章そのものが、お前のどうでもいい記録じゃないか、と言う人がいるかもしれない。
 あるいはそうかもしれない。しかし、私はいま、この文章が「書けば読まれる」ということを意識しながら書いている。
 そんな簡単なことも意識してなかったのか、とさらに言われてしまいそうだけど。いやあ、世のなかの文筆業の皆さまってすごいんですね。しみじみ。

 私は、もはや、自己救済に留まりたくない。
 おこがましいかもしれないが、他者救済を目指していきたいのだ。
 そのためには、自分の恥ずかしいところや暗いところ、なんでもさらけ出す。私を笑いあるいは同情しあるいは共感しすくわれる人がいるならば、どんなことでも書く。
 自分だけがすくわれればいい、って時代は、もう終わったでしょう。
 他者をすくうことは、自分をすくうことに直結しているのだから。

 そういうわけで、ふたたびいろいろ書き散らかしていきたいと思います。
 ブロックバター革命は、続きます。

 最後に――。
 この文章を書いているのは、何者なのか?
 1992年生まれ21歳、女です。
 10月に入学したばっかりの通信制大学で、哲学を専攻しています。通学制大学の中退歴あり。
 卒業するにせよゆっくり卒業するつもりなので、日々はまったりとしたものです。一時期ニートをしていたのですが、そのころと暮らしはほとんど変わりません。読んで、書いて、食べて、寝る。じつにシンプルな日々を送っています。
 部屋は散らかり放題でしたが、最近はわりとすっきりしています。はっぴを飾ったり、石を飾ったりする程度の余裕はあります。
 そんな部屋から、社会的に言ってしまえばほとんど空っぽの私が、空っぽじゃなく、お送りしていきたいと思います。

 では、よろしくお願いします!