小説家の定義、とは。
ブログの記事を書くのは、なんだかんだでひさしぶりな気がします。むかし書いた短編を、アップしていたりはしていたけれど。
とある友人がブログで、ブログというのはじぶんのために書いている、みたいなことを言っていました。じぶんのための、文章。あるときにそういった文章が必要で大切だというのは、もうたしかなことだ。
私はどうしても、エンタテインということもちらっと考えてしまうけれど、でもそれってじぶんのための文章が書けるようになってから、だとも思うんだよなあ。
だから、なるべくこのブログではじぶんのためになるような文章をこころがけています。
このあいだツイッターで、このように呟きました。
まあ、だれしもそういうところあるだろうけれど、私だってこんな人生になるとは思っていなかった。小説は大好きだったけれども、本を出すというのはどういうことなのかなんてわかっていなかった。ほんとうに、ふしぎだ。でもいろいろなことを承知のうえで言うと、やはり私の本質は小説家なのだと思う。
— 柳なつき (@natsuki0710) 2015, 2月 1
そして漠然と考えていたのですが、小説家だと名乗るということは、なんだか非常に微妙な問題だな、と。
いったいいつから、ひとは小説家だと名乗りはじめるのか。
出版してから? でも出版を経験していなくっても、小説家と名乗ることはできます。
小説を一本でも書き上げたら? でも小説を書き上げなくっても、そう、書き上げてさえいなくっても、小説家と名乗ることだけならばできます。私はいま、構想を練っているんだ! なんてね。
小説家って、いったいなんなのだろう……。
小説を、書いていれば、小説家なのかな。
そうなんだろうけれど、それってすごく、曖昧な定義だよなあなんて。
私にかんして言えば、本質が小説家だということは疑ったことがありませんが、出版するまでは、やはりそのことを信じてくれるひとはすくなかったです。まあ、出版を一度だけ経験したいまでも、信じてくれていないひとはいるかもわかりませんが! でも、私はどうしてもそこを疑えないので、とりあえず問題はありません。
……あえて、言うのならば。
語らずにはいられないひと、でしょうか。
じぶんはこんなにも傷ついた、ということを、世界に向けて言わずにはいられないひと。
じぶんはこんなにも傷ついたけれども、こうやって乗り越えたよ、ということをも、世界に言わずにはいられないひと。
思考とおなじく漠然とした答えとはなってしまいますが、なんとなく、なんとなくこう思います。
さて、とりあえず書かなきゃですね。ほんとうに。
本質が小説家であったとしても、形式でまず小説家であることに成功しないと、どうしようもないと思うから。